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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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宗教者が語るべき いのちの縁の自覚

2013年12月5日付 中外日報(社説)

新生児が病院で取り違えられ、60年後になって実の親子が判明した。取り違えられた男性らの訴えを受けて、東京地裁は病院に対し損害賠償を命じる判決を下した。

男性は、本来なら裕福な家庭に育ち、大学まで進学できたのに、取り違えられた家庭では父親が幼いころに亡くなり、生活保護を受けながら母親の手一つで育てられた。中学卒業後すぐに就職。働きながら定時制高校を出て、現在は運転手の仕事をしているという。

もう一方の家庭では、弟たちと顔が似ていないなどの疑惑のため、最近になってDNA鑑定を行った結果、兄弟間の血縁関係がないことが判明。そこから出生時の取り違えに気が付いて、ようやく「実の兄」を捜し出すに至った。

男性らにとって実の家族との交流が持てず、失われた60年の歳月はあまりに重い。男性の実の両親は、取り違いを認識しないまま、すでに故人となっている。いくら賠償金を積まれたところで、取り返しがつくものではない。その精神的苦痛は、察するに余りある。

ここであらためて問われているのは、人の世の縁のありようである。こんな時、宗教者には何が語れるのだろうか。

血縁のつながりは大切なものである。何といっても、それは肉親との命のつながりだからだ。一つ屋根の下で共に生きていく中で育まれていく縁もある。血はつながっていなくても、仲むつまじく暮らしている里親と里子の関係がそうであろう。これは育ての縁ということができる。どちらも"いのちの縁"には違いない。

しかし、同じ家族として過ごしてきた以上、そこに人知を超えた深い縁が存在するのではないか。あえて名付けるなら、それは魂の縁である。魂の縁こそ宗教的な意味での縁であり、あらゆる縁の根底にある最深の"いのちの縁"ともいうべき縁ではないだろうか。この縁においては、誰もが皆つながっているのである。

男性らは長い年月の間、知り合うことなく互いに別な家族として過ごし、相異なる人生を歩んできた。そして今、真実を知ったわけであるが、それと同時に図らずも生じたのが、この2家族の人々の奇しき出会いである。これもまた一つの結縁ではなかろうか。宗教者には深い意味での"いのちの縁"についてこそ語ってほしい。

男性は判決後に「訴えが認められて安心した」と語ったという。この言葉の中には万感の思いが込められている。男性らとその家族のこれからに、心から幸いあれと祈りたい。