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レイテ島の救援は日本に贖罪の機会

2013年11月26日付 中外日報(社説)

台風30号の直撃を受けたフィリピンで、最も被害の大きいのがレイテ島だ。この島の名を聞くと、太平洋戦争を知る世代は、暗く重苦しいものを感じる。昭和19(1944)年秋、レイテ島と周辺海域で日本の陸海軍は、致命的な敗北を喫したからである。

筆者の母のいとこは、高知県の海の村で漁業を営んでいたが、レイテの戦いで死亡したと見なされている。軍人ではなく、軍属として臨時徴用されたらしい。木造の機帆船で、広島の宇品港からレイテ島へ、食料などの軍需物資の輸送を命じられた。

輸送船の多くを失った陸軍の、窮余の策だった。近海航路の小さな機帆船に積める量は、知れている。それを承知で何隻かが南の島へ派遣された。レイテ作戦は、戦う前から負けていた。

情報が漏れるのを防ぐため、軍装でなく、民間人の服装で出動させられた。いったい、何隻に何人が乗り組んだのか。母のいとこは2回帰港したが、3回目はついに帰らなかった。米軍機に発見されたら、武装のない機帆船はひとたまりもなかっただろう。

日本軍の作戦は、味方に対して無謀だっただけではない。占領地の住民に対しても無謀だった。優勢な米軍を迎えて、住民におかまいなしの焦土作戦をとった。町や村落を戦場にしたのだ。住民は死傷し、住む家を失った。レイテ島だけでなく、次のルソン島でも同じだった。このため戦後のフィリピンは、対日感情の極端に厳しい国の一つになった。

日本降伏後のフィリピンでは、BC級戦犯を裁く軍事法廷で、厳しい判決が言い渡された。マニラ郊外のモンテンルパ刑務所に収容された死刑囚に、日本人が面会する機会はほとんどなく、マリアの宣教者フランシスコ修道会のフランス人修道女の慰問だけが許される形だった。高野山真言宗・加賀尾秀忍(後に僧忍)大僧正の慰問がかなえられたのは、講和条約調印の年の昭和26(1951)年より少し前のことである。

多くの人々の努力で日比関係は好転した。このたびの台風災害救援のため、多数の自衛隊員が現地に派遣されている。その活動を伝える日本の新聞やテレビは、なぜかレイテが激戦の島であったことにほとんど触れようとしない。いまの若い記者が、戦史を知らないためだろうか。

戦争を知る世代としては、かつてこの島に戦争という人災をもたらした日本がいま、天災に遭った住民を助けるという贖罪の機会を与えられたと考えたい。