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本質が露わになった現代人の欲望と無明

2013年11月9日付 中外日報(社説)

戦後、特に大都会での必需品はまずは食べ物であり着物であり、粗末でもいいから住む家だった。ようやく生活も落ち着きを取り戻し、もはや戦後ではないといわれだしたころ、日本中の人々が欲しがったのはテレビ、洗濯機、冷蔵庫、さらには電話や空調など家庭生活の必需品で、人々は「モーレツ」に働いて手に入れた。家庭電化が一応達成されるとマイカー、マイホームが売れ始め経済に未曾有の活況をもたらしたが、行き過ぎて不動産バブルがはじけ、以来今日まで不況気味が続いている。

前世紀の中ごろ、消費は美徳だとか、欲望こそが技術と経済発展の原動力だとかいわれて、研究者でもこう説く人が稀ではなかった。行き過ぎた経済の優位は他分野を圧迫して社会にゆがみをもたらすと言う人もいたのだが、それは無視された。「資本主義」国も「共産主義」国も、経済こそが人間生活の基礎だという点では一致していたのである。実際、そのころは公害も環境破壊も経済格差も注目され始めてはいたが、大問題にはなっていなかった。

さて戦後70年たって生活は豊かで便利になった。では「欲望」は充足して失せたのかといえば、そうでもない。かつてのように特定の商品が景気全体を上向かせることはなくなったが、いまやマスコミの話題を占めるのは儲けと勝敗と楽しみに関わることが大部分だ。どうやら特定の商品を手に入れることではなく、儲けと勝敗と楽しみそれ自身が関心事となったように見える。

特定の商品への欲望には限度がある。若者は以前のようにマイカーに熱中せず、中年もかつてのように高級住宅に食指を動かさなくなったようだ。しかし儲けと勝利と楽しみへの欲望には限度がない。欲望が変質したのだろうか。むしろその本性が露わになったというべきだろう。

エゴイズムという言葉があるが、これはごく浅い意味で使われているようだ。しかしエゴイズムとは要するに我執・我欲のことである。他人ではないこの「私」が、注目され、勝ち、儲け、楽しむということだ。それは特定のものへの欲望とは質的に異なる。仏教は――仏教だけではなく人間を深く理解していた宗教・思想は――「無明」が我執・我欲を、さらには傲慢(傲り高ぶって必要事をないがしろにすること)を生むことを知っていた。しかし現代人は利益を約束しない宗教には関心を失ったように見える。そもそも宗教界でも「無明」はどれほど問題にされているのだろう。