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沖縄の問い掛けに応えねばならない

2013年10月29日付 中外日報(社説)

沖縄の「基地の街」コザ市(現沖縄市)の市長を4期務め、平成11年に97歳で亡くなった大山朝常さんが自己の「遺書」として著した『沖縄独立宣言【ヤマトは帰るべき「祖国」ではなかった】』(現代書林)に次の記述がある。

「米軍基地内の将校の家でメードとして働いていた沖縄人女性がその米軍将校に犯された。それを知った将校の妻がそのメードに命じて庭に穴を掘らせたうえ(メードを)射殺し、穴に埋めた。事件は発覚したが、問題にすらならなかった。そんな残酷で理不尽な事件がたくさん起こり、その都度沖縄人は泣き寝入りをさせられてきた」(一部要約)

大山さんが市長在職中に起きたコザ暴動(昭和45年)は鬱積した沖縄の怒りの爆発だった。

このような沖縄の戦後史の一端を振り返ってみたのは、不戦を誓った日本の平和憲法が危機にあることを本土(ヤマト)の住民より沖縄県民の方が敏感に感じ取っているように思うことと関係する。本土からの自立・独立を模索する言説は一つの表れと言っていい。今年5月には地元有識者らが「沖縄を平和と希望の島に」と琉球民族独立総合研究学会を設立、10月末に第1回学会大会を開いた。

沖縄は大戦末期に民間人10万人以上が犠牲になった凄惨な沖縄戦を強いられ、日本が主権を回復した昭和27年には本土と切り離され米軍支配下に据え置かれた。

この措置は「領土の一部を住民と共に他国の統治に委ねることは人類史上、例が乏しい」とまでいわれたほどだ。

過酷な軍事支配を経て41年前に本土復帰が実現した時、沖縄は平和憲法を掲げる祖国へ還るという希望にあふれた。長く厳しい体験を強制されたが故になおさら平和と人権を柱とする憲法を渇望し、軍事支配への抵抗の礎にもなったと語り継がれている。

ところが、復帰後も過重な基地負担は変わらないばかりか普天間基地の移設問題や大量のオスプレイ配備など基地機能の強化が図られ、米兵による少女集団暴行など県民を巻き込む事件や事故も後を絶たない。人々の失望は深い。

沖縄では「軍事基地に苦しむ同胞に無関心な国民が、平和憲法を守れるはずがない」という冷めた声を聞く。集団的自衛権の行使や軍事機密の漏えい防止を名目とする秘密保護法制の具体化など、軍事的要素に傾斜する昨今の本土の動きを見据えてのことである。

「でも防衛は沖縄任せ。原発の過疎地任せと同じ意識では?」。沖縄のその問い掛けは痛烈だ。