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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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災禍の伊豆大島は心優しい宗教風土

2013年10月22日付 中外日報(社説)

昭和61(1986)年、東京都大島町(伊豆大島)の三原山が大噴火を起こした。全町民は危難を避けて、東京都の区部に避難し、長期間滞在した。この時の体験を踏まえ、大島町の住民は噴火、地震、津波には機敏に対処する気構えができている。

一方、台風は毎年のように襲来するが、大島の住宅は構造がしっかりしているから、打たれ強い。その打たれ強さが裏目に出たとも思われる。今回の台風26号は、27年前の噴火の火山灰を一気に押し流し、多くの人命を奪った。

伊豆大島は、心優しい人々の住む土地である。無一文で上陸しても、1週間や10日は生活に困らないという。見ず知らずの人にも、ふかし芋を「どうぞ」と勧めてくれる。四国遍路の「お接待」のような美風だ。

海岸では貝が拾えるし、山では明日葉を摘むことができる。住みよい環境である。本州からの来訪者は国者と呼ばれ、新しい情報をもたらす人として歓迎された。画家の東郷青児氏は若い時、温かい人情あふれるこの島で約1カ月過ごしたそうだ。

聖武天皇の神亀元(724)年に伊豆大島は、重罪人の遠流の地の一つに定められた。その伝統は江戸時代まで続き、赤穂義士討ち入りの翌年、元禄16(1703)年には義士の遺児4人が島に送られてきた。15歳以上の男子は、父親たちの切腹に連座して、島送りの罪に処せられたのだ。

赤穂義士に同情する世論に配慮して、幕府はわずか3年後、全員を赦免した。だがその1人、間瀬久太夫の次男・定八は1年前、22歳で病死していた。島民は定八の死に同情し、日蓮宗海中寺の檀徒墓域に墓標を、曹洞宗金光寺の境内に供養塔を建立した。両寺院とも、今回の被災地にごく近い元町地区にある。

平成17(2005)年4月23日の命日には、浄土宗潮音寺も加わって「間瀬定八・三百遠忌」が営まれ、有志が組織した「間瀬定八顕彰会」による義士行列が町内を練った。流人にも温かく接した土地柄の表れである。

大島町元町の一部には、葬儀の時に遺族が「色を着る」慣習がある。「色」とは真っ白な、浴衣のような衣類のことだ。白い布を使って大急ぎで縫い上げ、それを羽織って葬列に加わるという。白を喪の色とする儒教の風習に通じるものであろうか。

「色を着る」思いで伊豆大島の犠牲者を追悼し、一日も早い復興を念じたい。島の人々のゆかしい気風を心に留めながら。