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志半ばで被爆死した女優に捧げる追悼詩

2013年8月20日付 中外日報(社説)

「さくら咲くとき/さくら散るとき/九本の桜を想う/夏の日に散った/いのちを憶う」

東京都在住の詩人・伊藤眞理子さんは10日午後、岩手県岩手町の岩手広域交流センターで開かれる「広島の被爆体験を聞く会」で、同県出身の女優・園井恵子をしのぶ自作の詩を朗読した。続いて茨城県在住の被爆者・村上啓子さんがヒロシマの体験を語り、園井が出演した大映映画「無法松の一生」も上映された。

大正2(1913)年、同県八幡平市に生まれ、岩手町で育った園井は、昭和4(1929)年に兵庫県の宝塚音楽歌劇学校に入学してタカラジェンヌとなり、春日野八千代らと共演した。

同17年に退団し、翌年封切りされた「無法松の一生」で阪東妻三郎の相手役を務めた。「専属女優に」との大映の誘いを断り、丸山定夫主宰の新劇劇団「苦楽座」に参加する。

太平洋戦争の激化で演劇人は自由な活動ができなくなり、軍の指示で、傷病兵や工場への動員者慰問のための移動演劇をする道しか残されていなかった。園井は丸山を中心に組織された劇団「さくら隊」に所属し、主に中国地方を巡回した。

9人の団員は同20年8月6日、爆心から700メートルの広島市中区堀川町の宿舎にいた。爆風で宿舎は倒壊、5人が即死。園井、丸山ら4人は脱出する。この日は園井の32歳の誕生日だった。

無傷の園井は、ボロ切れのような服装で、神戸市の宝塚ファン宅にたどり着いた。15日に終戦を知った園井は、盛岡市に住む母宛てに「自由な演劇活動のできる時代が来ました」と記したはがきを投函する。だがその直後、高熱と共に皮下出血が始まった。急性原爆症だ。苦しみ抜いて、21日に死去。他の3人も相次いで逝き、自由な演劇活動は、ついに果たせなかった。

戦後、九州から広島へ移住し、文学を通じての平和活動を重ねた伊藤さんは、演劇人らが広島市内に建立した「移動演劇さくら隊殉難碑」に詣でて園井らの悲劇を知り、追悼の詩を捧げた。

生誕100年の今年、出身地の岩手県内各地で園井顕彰の催しが企画され、平和活動の仲間・村上さんと共に、岩手町文化振興実行委員会から招かれた。

広島忌。長崎忌。終戦忌。8月は、戦争で志を果たす機会を奪われた人々をしのび、遺志をいかに継承してゆくかの思いを新たにする月だ。宗教者が、よき導き役となることを期待したい。