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原爆の子の像の原点伝える記念冊子出版

2013年6月22日付 中外日報(社説)

「六年竹組は、中学生活のほとんどを像の建立に費やしました。禎ちゃんの入院から数えると、四年間を原爆とともに過ごしたことになります。私たちの中学時代は禎ちゃんに始まり、原爆の子の像に終わりました……」

昭和33(1958)年5月、広島市の平和記念公園に、長円形のドームを基盤とする「原爆の子の像」が建立されてから、55年になる。折り鶴を捧げて頂点に立つ少女像は、その3年前、原爆症のため12歳で亡くなった広島市立幟町中1年生、佐々木禎子さんをかたどったものだ。

この像ができるまでの経過を、生前のエピソードを交えて詩文調でつづった記念冊子『原爆の子の像・六年竹組の仲間たち』が出版された。著者は同市立幟町小でずっと同級だった川野登美子さん(会社相談役)である。

満2歳の時、1・6キロの距離で被爆した禎子さんは元気な少女として育ち、学級対抗リレーの選手を務めるほどだったのに、卒業直前の昭和30年2月、原爆症で広島赤十字病院に入院した。

学籍簿の上で幟町中に進学した禎子さんは、一日も登校することができなかった。千羽鶴を折ったら治ると信じ、ベッドの上で折り続けたが、その年10月25日に短い命を終えた。

被爆後何年もたってから発病する、悪魔のような原爆症。そのもとである核兵器は廃絶しなければならない。その思いを込めて、禎子さんの記念碑を作ろう。残された61人の同級生は「団結の会」をつくり、募金を始めた。

その運動は、広島全市の児童・生徒の運動に広がった。禎子さんだけでなく、原爆で亡くなった全ての子どもを追悼するための「広島平和をきずく児童・生徒の会」が組織された。全国から寄せられた浄財は580万円。その大部分は、お小遣いを節約した10円玉であった。除幕式に招かれた川野さんらは、禎子さんに生き写しの像に熱い拍手を送った。

川野さんは18年前から、平和学習の児童・生徒たちに禎子さんの思い出を語り、平和の尊さを訴え続けている。禎子さんは学力も優れていた。寺院での合宿では真っ先に般若心経を暗記し、大声で唱えていた、とも。

「私と禎ちゃんは同じように被爆をし、禎ちゃんは生き続けられなかった。けれども、私はこうして生かされています。このことを大切に感じて、精一杯生きていきたい」。記念冊子最終章の川野さんの言葉だ。多くの人に読まれることを期待したい。