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宗教が教えてきた世界と人生の受容

2013年5月16日付 中外日報(社説)

年配の人は覚えておられようが、徳川夢声は戦後、対談の名人として活躍した。その対談の一節にこういうものがあった。「どうです先生、このごろ美人が少なくなったと思いませんか」「そうそう、それですな。どうも見とれるような人がいなくなった」「先生、それはね、美人が減ったのではなくて、先生がお年を召されたんですよ。ハハハ」

対談はここから展開してゆくのだが、それはともかくとして、学生のころは偉い先生だと思って熱心に講義を聴き著書も読み、確かにいろいろなことを教わったのではあるが、年を取ってから考えてみると、どうも大したことはない人だった、ということがあるものだ。あのとき講義でこういうことを教えてくれていたら、後でどんなに助かったことか、と思ってしまうのである。

人にはそれぞれ個性があり、複雑で多面的だから、その人となりは簡単に分かるものではない。それでも年を取ると、若いころには分からなかった人格の善しあし、能力の優劣などが見えてくるものだ。むろん年を取るにつれてその人の偉さが分かってくるということもある。その人のことを思い返すにつれて、めったにない人だったと思われてくるのである。しかしそういう人は多くはない。

人柄だけではない。若いころは憧れもし熱中もした事柄が年を取るにつれて魅力が失せ欠陥も見えてくるという幻滅は老年の寂しさのうちだろう。人生とはいかなるものか、一応見えてくるのは老年になってからのことである。若いうちから恋愛や結婚、職業、家庭や付き合い、病気、もめ事など、要するに人生がどういうものか分かっていたら、あれこれ迷わずに済んだのに、人生は誰にとっても「ぶっつけ本番」で、練習を重ねてから始めるわけにはゆかない。青年の憂愁、中年の悲哀、老年の寂寥が因って来るゆえんである。

では老年は、ただ苦い思い出をかみしめるほかないのだろうか。そうとも限るまい。人間というものが見えてくるにつけて、人間このままではいけないとは思いながらも、他面ではこの世とそこに暮らす人々を、善人も悪人も、栄光も悲惨も病苦も、あるがままに受け入れることができるようになるとすれば、静かで安らかな老年を送ることができるだろう。

そして、宗教が教える世界と人間の基本的な受容―キリスト教では赦し、和解といわれる―は、この世をよりよいものにしてゆこうという願いや意志と矛盾するものではないことに気付くのである。