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無垢な心を養いつつ生きた後漢の自由人

2013年4月27日付 中外日報(社説)

旧知の書家の個展で心を引かれた額装の一幅の書。篆書にいくらか隷書の気味を交えた書体で「陶天真」と書されている。「それほどまでに気に入ってもらえるのなら」と、図らずも恵与されることとなった。

「陶天真」の「陶」は中国の古い字書に「陶は養なり」とある解釈に従うべきであり、「天真」は「天真爛漫」のそれであって、自然のままの純粋無垢な心のこと。従って「陶天真」は「天真をやしなう」と訓読されるのだが、この3文字は中唐の権徳輿の「厳陵の釣台下の作」と題された五言古詩に、「耕釣陶天真(耕釣して天真を陶わん)」と用いられている。厳陵は『後漢書』逸民伝に立伝されている厳光、字は子陵のこと。

厳子陵は後漢の初代・光武帝劉秀が即位する以前の学生時代の学友だったが、劉秀が即位すると姓名を改めて姿をくらます。劉秀は天下に使者を遣わし、かくして探し出された厳子陵は丁重に宮中に迎えられる。一夕、昔話に興じた折、劉秀が「わしは以前に比べてどうだね」と尋ねると、厳子陵は「以前よりちょっぴり進歩したようだな」と答え、やがて劉秀の腹の上に足を投げ出し眠ってしまった。翌朝、天文観測の役人から「天界に現れた新星が帝王の星座を侵犯しました」との奏上がなされたが、劉秀は苦笑交じりに「いや、わしの旧友の厳子陵が一緒に寝たまでだ」と言うのであった。

劉秀は厳子陵に官位を授けようとしたものの、あっさりと断って富春(浙江省富陽)に隠棲し、畑を耕し魚釣りを楽しみとする日々に明け暮れる。『後漢書』の注に引かれる顧野王の『輿地志』に「桐廬県(浙江省桐廬)の南に厳子陵の漁釣せし処有り。今、山辺に石有って、上は平らかににして十人を坐せしむ可く、水に臨む。名づけて厳陵の釣壇と為す」とある。富春から銭塘江を少し遡った所が桐廬であり、権徳輿の詩の詩題の「厳陵の釣台」と「厳陵の釣壇」はもとより同じものである。

権徳輿のその詩は「絶頂は蒼翠を聳えしめ(山の頂は深い緑色の姿を聳え立たせ)、清湍に石は磷磷たり(清らかに澄みきった早瀬には石が透けて見える)。先生(厳子陵)は其の中に晦れ、天子も臣とすることを得ず」とうたい起こされ、「弛張には深致有り、耕釣して天真を陶わん」との句が置かれている。人生の浮沈にしみじみと感興が催されるが、それにくよくよと心を煩わせるより、厳子陵のように耕作と魚釣りで日々を過ごし、「天真」の涵養につとめたいものだというのである。