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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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非本質的な慣習なら 改めるべきは改善を

2013年4月13日付 中外日報(社説)

教育やスポーツ指導の現場における体罰・暴力が社会問題になっているが、宗教界も修行の在り方と関わってくるだけに無関心ではいられない。伝統的な修行の本質は守らねばならないが、社会感覚の変化は無視できない。この程度は当然という、宗門内でのみ共有される「常識」は通用しにくくなっている。社会的常識と伝統の中で養われてきた感覚を調整する必要があるだろう。

一般論として、僧伽や修道院などは本来、修行者同士が相互に支え合うために成立した。そこで互いに精神的に高める工夫、修行共同体の秩序を守る内部規範が誕生するのは当然のことだ。山岳等の厳しい修行では、グループからの脱落が死を意味する場合もあり得る。それを防ぐための智慧も自然と養われてきた。

各宗派の伝統的な修行体系における厳しい内容の指導も、社会の現実、人間の限界を意識した智慧や工夫の結晶である。例えば仏教では、釈尊はそもそも体罰的指導を容認しただろうかという自問が一方で必要だが、修行体系の智慧と工夫は重んじられるべきだ。

むろん、人間の集団であれば、時には本質を見失い、他者を支え導くべき指導が自己目的化して、悪しき結果を生むことがある。モラルの歯止めが相対的に強いはずの宗門も、高い理念を掲げて出発した他のさまざまな組織がしばしば示すそうした通弊を免れることはできない。

大きな事故には至らないとしても、それは行き過ぎではないか、と考えさせられるような話を聞くことは今もある。集団生活の中で「常識化」してしまった非本質的な慣例は、健全な社会的感覚に照らしてあらためてチェックする必要があるだろう。

半世紀ほど前、禅宗教団の大規模な接心で、坐禅を指導する雲水が、いわば頑張り過ぎて、通常より弱い材質だが警策を何十本もたたき折ったという、一種の武勇伝が伝えられる。これは確かに、過去の宗門の精神的雰囲気を伝えるエピソード(ただし、当時としても特異な)ではあるが、現代にはもはや通用しない昔の話である。ただ、その種の今では通用しにくい感覚が、一部の慣習の中に遺物として残ってはいないだろうか。

宗門には宗教的価値の聖域があるが、その聖域を守り伝えるさまざまな装置自体は社会の変化に当然、深く関わらざるを得ない。伝統的な修行体系が目指してきた本質的内容を守るためにも、改めるべき部分は積極的に改める、という発想が求められる。