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寺院を嗣ぐ子弟が宗門校で学ぶ意義

2013年4月6日付 中外日報(社説)

戦前の話だが、ある宗門人の子息が帝国大学に合格したところ、親から「宗門の大学へ行け」と命じられ、帝大進学を諦めたという。宗門校進学は師の命令だった、というような話は他にも高齢の僧侶からしばしば聞いたことがある。

今はどうだろうか。

子息が名の知れた一流大に合格することを喜びこそすれ、それでも宗門校へ行けと言う師僧は少ないのではないか。偏差値一辺倒の教育・受験に宗教界も巻き込まれ、すっかり世俗化したためか、宗門校の教育自体に魅力が乏しくなったのか。

僧侶になるからといって必ずしも宗門校に入学する必要はない、というような感覚が宗門を支配しつつある、と見るべきなのかもしれない。

非宗教系の大学で宗教とは関係のない専門教育を受け、そこでさまざまな人間関係を築くことが、宗教者として、将来、一寺の住職になる上で役に立つ、という見方もむろんあるだろう。

大学の数は、多くの宗門系大学が開学された当時と比べれば大幅に増加し、乱立と言いたいほどである。寺院の子弟に高等教育を授ける場所を、という宗門大学の設立趣旨の意義も相対的に薄れてきた。

しかし、宗門校でしか受けることができない、宗門人として必要な教育は間違いなく存在するはずだ。

宗門大学で学ばなくても構わない、とする感覚があるとしたら、別のルートを選んだため得られなかった部分は、別の形で補わねばならない。それを補う方法がどの程度制度化されているかは宗門によって異なるが、いずれにせよ自覚的な努力なしに宗門人としての道を歩もうとするのは誤りであり、危険である。

一方、宗門校の側も、大学教育の環境がガラリと変わった事実を踏まえ、新たな形で宗門子弟の高等専門教育を担うため本腰を入れるべき時期だ。

建学の精神を鑑みれば、本来、宗門大学の中心であるべき宗学や仏教学の学部学科が、毎年、定員割れに脅かされ、肩身も狭く他の学部学科の陰に埋もれてゆくようでは、宗門の教学そのものの未来が危惧される。

在家出身で宗門校において熱心に仏教学研鑽にいそしむ人や、遠く海外から来日して、仏教の専門研究に打ち込んでいる人もいる。寺院に生まれ、寺院を嗣ぐ学徒にも、教学の将来を担うため奮起を求めたい。