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宗教的感覚の衰えと「とうとさ」への感覚

2013年2月28日付 中外日報(社説)

「あらたうと青葉若葉の日の光」という、よく知られた松尾芭蕉の句がある。ふつう青葉若葉は見事だとか美しいとか奇麗だとかはいわれるが、「とうとい」とはいわれない。「目には青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂)という句があり、「不二ひとつ埋め残して若葉かな」(与謝蕪村)という句もあるが、どちらにも「尊い」という感覚はない。

さて「とうとい」には漢字の尊と貴が当てられるが、尊は元来神が降臨する場所と関係があり、宗教的な含意を持っている。だから不動尊とか地蔵尊などという呼び方がある。他方、貴は身分が上である、あるいは値段が高いという含みを持ち、だから貴人とか貴族とかいう語がある。貴石の「貴」は位と値段の両方の高さを示す。上記の句の「あらたうと」はむろん「尊」である。

現代は非宗教化が進行しているから、重要とか大切とかはいうが、「とうとぶ、とうとい」という語はあまり用いられなくなったようだ。かつて小学校の卒業式では必ず「仰げばとうとし我が師の恩」と歌われたものだが、この歌は歌詞が文語であり内容も戦前調であるので、現在ではあまり歌われないようである。もっとも戦前からして生徒たちは実感を持って「仰げばとうとし我が師の恩」と歌っていたわけではない。歌うほどにすすり泣きが聞こえたものだが、これは「今こそ別れめ、いざさらば」という歌詞に涙ぐんだのであろう。

「貴」についても同様で、階層の上下はあっても身分の差別はない現代では、貴君とか貴兄というような呼び方は単なる敬称であって、身分の別を示すものではない。「尊敬」という語にしても、単に「敬意を表する」ということであって、「あがめうやまう」という意味は希薄であるようだ。

それだけに青葉若葉の日の光が「尊い」という感覚は、この感覚自体が尊いものに思われる。ここで芭蕉は「青葉若葉の日の光」に単なる自然現象以上のものを感じ取っているのである。人間と世界を超えたものがそこに現臨しているという感覚である。見えているのは単なる象徴ではあるまい。外なる光に人の心を照らす内なる光が呼応しているからである。

現代では「青葉若葉」は科学的に認識される植物の一部であり、植物は食物であり、建築や器物の素材であり、せいぜい環境か観光資源である。日の光もエネルギー源であろう。現代では宗教もどれだけ感覚の中に生きているのだろうか。