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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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語り伝えるために映像文化の活用も

2013年1月19日付 中外日報(社説)

広島での被爆体験を持つ松野妙子さんは昨年、意義深い二つの出来事を重ねた。一つは春の彼岸会に、自宅に近い山口県岩国市今津町の浄土宗称光寺で、参拝の檀信徒に初めて被爆体験談を話したこと。もう一つは、被爆死した兄と妹の遺品を、広島平和記念資料館(原爆資料館)に寄贈した経過について、中国放送(広島市)の取材を受けたことだ。

被爆の日、妙子さんは爆心から約4キロの工場にいて、軽い傷を受けた。しかし1歳上の兄・木村一男さんは1・8キロの広島工業専門学校(現・広島大工学部)で、全身にガラス片が刺さり、3年間苦しんで亡くなった。

さらに悲惨だったのは4歳下の妹・幹代さん。広島第一県女(現・広島皆実高)1年生で、家屋疎開作業に動員され、原爆の真下に近い場所で被爆した。

全身が焼けただれ、広島県廿日市市の自宅まで担架で運ばれた幹代さんは、自宅に入る時、気丈に「ただいま」と叫んだが、翌朝亡くなった。実家は神道の家だったので、同市の速谷神社の神官に見守られ、火葬された。

資料館に寄贈した学用品や賞状などの中で、特に妙子さんの思い入れが深かったのは、幹代さんの戦時日記だ。学校生活を克明につづり、広島に飛来した米軍機のスケッチも入っている。称光寺で話す時、妙子さんは幹代さんの日記帳の1ページを拡大コピーして、参列者に配った。ところが会場の反応は「読めない」。旧字体、旧仮名遣い表記だからだ。妙子さんは、語り継ぐ難しさを感じた。

幹代さんのように、家屋疎開作業中に命を奪われた男女生徒の遺族の中には、事情あって作業に参加せずに生き残った同級生の顔を見たくない、という人がかなり多い。しかし妙子さんは、広島皆実高主催の慰霊祭では、進んで生き残り生徒に声を掛けた。「生きていてくれてありがとう。あなた方がいてくれるおかげで、幹代のことを後世に語り伝えることができます」

戦後生まれで、埼玉県在住の男性・Aさんはこう提唱する。「広島や長崎に限らず、各地の空襲体験などを語り継ぐ困難さが問題となっています。現在の映像文化を積極的に活用することはできないでしょうか。語り部役の体験者が元気なうちに、話す姿と声をDVDなどに記録しておく。後継者はその映像をもとに、語り継ぐ技を磨くのです」。それには、称光寺のような場が、より多く設定されるべきであろう。宗教者の協力が期待される。