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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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目の前にある災害のリスクに鈍感な国柄

2013年1月17日付 中外日報(社説)

「しまった」という痛切な悔恨の念に駆られた。18年前の1月17日、神戸市東灘区で阪神・淡路大震災に遭った時である。大地震はいつかあるだろうが、それは日本列島のどこかであり、まさか足元で起こるとは思ってもみなかった。その不明と「備えゼロ」の後悔を伴った感覚は、例えて言うなら、たばこと酒に親しんで不意に病院で「がん」と宣告された衝撃に似通っていた。災害は、被災して初めて身近に忍び寄っていたことを思い知らされる。

東日本大震災は未曾有の地震、津波に人災としての原発事故が加わった。以来2年が近づくが、復興は緒にも就いておらず、原発事故はまだ進行中と言っていい。だが、昨年末の政権交代で原発は再稼働どころか新増設まで容認されかねない雲行きだ。21世紀に入り文明社会が"疾走"を始めた感もある中、記憶の風化まで加速しているのだろうか。いずれどこかで、また取り返しのつかぬ「しまった」が起きることを恐れる。

「喉元過ぎれば」ということわざがあるが、少し視点を変えて考えておきたい。

災害心理学でいう「正常性バイアス」は予期せぬ異常や危険を過小評価しがちな人間心理で、2003年2月、韓国大邱市の地下鉄火災がよく例に挙がる。駅ホームに停車した列車が放火され、反対ホームに入った列車に燃え移って双方とも全焼、犠牲者は200人近くに上った。反対ホームの列車の乗客が撮った写真には、車内に煙が流れ込んでくるのに避難せず辛抱強く耐えている人々の姿が写っていた。車内放送で「しばらくお待ちください」と告げられ、危機回避の行動が遅れたようだ。

危険が差し迫った状況下でも、人は「正常性バイアス」に行動を縛られやすい。とりわけ公的機関に「安全」と言われた場合、その傾向が強くなることがよく知られているという。

そう言われてみれば、そもそも災害多発国で国土の狭い日本に五十余基もの原発が建設されるのを「見て見ぬふり」してきた私たちは、どうかしていたのかもしれない。その上、東日本大震災を経験してなお目が覚めず、同じ轍を踏むようなことがあっては言い訳の言葉を見つけるのは難しい。

阪神・淡路大震災では活断層上の地表面に1メートル余、濃尾地震(明治24年)は6メートルもの段差が現われた。報道によると、全国の原発のうち、すでに二つの原発の直下で活断層が存在すると分かった。忍び寄る災厄の足音が聞こえてきそうな気分にもさせられる。