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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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「脱原発」後の宗教者 苦の現場の当事者性

2013年1月3日付 中外日報(社説)

福島第1原発の事故は、放射能汚染という大きな負の遺産をつくり出してしまった。それと同時にあらためて認識されたのが、原発は事故を起こせば取り返しのつかない災禍をもたらすだけでなく、原子力それ自体もクリーンどころか、危険極まりないエネルギー源であるという事実だ。

加えて猛省すべきは、放射性廃棄物の管理と貯蔵をいつ果てるともなく子々孫々に押し付けるわれわれの世代の無責任さである。人間もまた、いのちを紡ぎ、いのちを子孫につないでいく営みの中に生きている。いまの暮らしばかりでなく、未来世代のことをもしっかり考えていかないことには、どうしようもない。

ここから即刻、原発を廃止すべきという意見が出てくるのは当然なことだ。脱原発の声は、日に日に国民の間で高まりつつある。宗教教団においても、脱原発声明を出す動きが続いている。脱原発それ自体については、異論の余地はまったくない。

ただ、戦後の原発行政を考えると、原発で成り立ってきた地域の人々の暮らしと就業対策のことも熟慮する必要があるだろう。原発やその関連施設の誘致で地場産業の活性化につながるという期待もあって、それを受け入れて来ざるを得なかった過疎地域の苦衷も忍びないものがある。

また、政治の継続性ということからしても、即刻廃止という掛け声だけでは済まないだろう。その場合も、原発に依存しない暮らしや就業の在り方に官民挙げて取り組んでいくべきところだ。脱原発を進める中、地域のためにさまざまな利害関係者の意見を調整しつつ、ソフトランディングしていく方法論が必要である。

これに対し、宗教者の場合は、それらの中でも最も弱い立場の人々にどう寄り添っていくかがその役どころになろう。とりわけ過疎化の進んでいる地域では、宗教者もまた、地元の人々と共に、村落の孤立や人口減少の中、この地域社会をどう存続・発展させていくか悩み、手探りで模索していかなくてはならない。現場での実践には定石はないのだ。

だがそこにこそ、自らも社会の一員として生きる宗教者の「当事者性」が存在するのである。当事者であることは、単に与えられるものだけではなく、自らが獲得していくべきものでもある。その意味で、誰もが当事者になり得るし、宗教者であれば、あえて苦の現場へと踏み込み、自らを当事者としてどこまで巻き込んでいけるか、いま強く問われている。