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競争の原理を超える「推譲の精神」の貴さ

2012年12月8日付 中外日報(社説)

中国の遠い昔のこと、周の太王には長男の泰伯、次男の仲雍、三男の季歴の3人の息子があった。太王は季歴の子の昌、すなわち太王にとっては孫に当たる昌の素晴らしい才能に気付き、ぜひとも位を伝えたいと思った。昌はやがて周王朝の始祖の文王となる人物である。

だが昌に位を伝えるためには、順序としてまず三男の季歴に跡を継がさなければならない。父親の太王のそのような意向を察した泰伯は、季歴に位を譲った上、弟の仲雍と共に南方の未開の荊蛮の地に逃れ、体に入れ墨を施し、ざんぎり髪にしてその土地の風俗に同化した。泰伯はやがて呉の国の創業者となる。

『論語』の泰伯篇の冒頭に、このような泰伯の行状を賛嘆した孔子の言葉が記録されている。

「泰伯は其れ至徳と謂う可きのみ。三たび天下を以て譲る。民は得て称する無し(民はどのように称えてよいのかも分からない)」

なぜ「三たび」というのか、解釈は一つに定まらないが、泰伯が相続権を弟の季歴に譲ったことがもっぱら意識されていることは疑いがないであろう。

ところで興味深いことに、長男でありながら相続権を放棄して弟に譲った泰伯と相似形をなす話を他にも見いだすことができるのだ。『史記』の列伝の最初の巻に立伝されている伯夷の話である。

伯夷はそもそも殷の末に孤竹国の国君の長男として生を受けながら、次代の国君となるべき地位を放棄して末の弟叔斉に譲った。叔斉も位に就くことを辞し、共に周の文王昌のもとに身を寄せようとした。だが2人がやって来た時、文王はすでに亡くなっていた。やがて2人は文王の子の武王が殷の紂王を討滅するための兵を挙げたのに抗議して首陽山に隠れ、ついに餓死するに至る。

女流文学者として令名をはせた後漢の班昭に、伯夷と泰伯とを並べて取り上げて次のように論じている文章がある。「伯夷と叔斉が孤竹国を棄てたことを、天下の者は廉潔高尚だと敬服した。泰伯が故郷の●の地を離れたことを、孔子は三たび天下を以て譲ると称えている」

班昭はこのように述べ、その上で伯夷や泰伯の「推譲の誠」は誠に貴いと語っている。

「推譲の誠」とは他人を表に立てて自分は後景に退く誠心のこと。「推譲」の精神は、ともすれば競争の原理が優先しがちな現代の社会においても、時代を超えて人々の心に訴えるだけの力を失っていないのではあるまいか。

●=分+阝