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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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人の心を「開放」し 重荷から「解放」を

2012年11月15日付 中外日報(社説)

尼崎市の連続変死事件は、何とも形容し難い不気味な事件だ。首謀者とされる角田美代子被告を含め、その家族関係者が8人も逮捕された。角田被告は結婚や養子縁組を通じて"家族"を拡大し、自ら思うがままに支配するところから一連の事件は始まった。

家族はある意味、社会的には「密室」となり得る。そこでどんなに虐待や暴行が行われ、また悪質な「マインドコントロール」がなされていても外からは気付かれにくい。しかも、小集団であればあるほど、結果は恐ろしいものになる。今回の事件では遺体発見5人、行方不明4人という信じられない被害が出た。(13日現在)

東日本大震災の後、「絆」という言葉が広く喧伝された。それは無縁社会の状況が広まる中、被災地であると否とを問わず、国民全体の心に、今こそ人と人とのつながりを回復させなければ、という励ましの掛け声として響いた。

だが、「絆」は一方では「ほだ(し)」とも読み、「しがらみ」「束縛」という意味もある。危うい微妙なバランスの上に成り立っているのが、人と人との間柄である。とりわけ家族関係がそうだ。一歩でも道を踏み誤れば、そのままずるずると変な方向に進んでいく可能性がある。角田被告の一家も、外部から見れば明らかに異常な事態が発生していたのだが、内部では一種の家族の情にほだされた揚げ句、どうにも身動きとれない状態にまで追い詰められていったのかもしれない。

それにしても、なぜこのような被害が出るまでに周囲の者、とりわけ宗教者が気付いて対処することができなかったのか。報道を見る限り、残念なことに宗教者に相談したという形跡は見られない。それどころか、これをカルトのようだとして、宗教批判に結び付ける安易な言説も出てきているのは、極めて遺憾なことだ。

そもそも宗教とは人の心を「開放」するだけでなく、同時にその人の現実のしがらみや重荷から「解放」させるものでもある。教えや信仰による心魂のレベルでの救済だけでなく、実際に手助けを行う避難所的な役割も果たしてもよいはずだ。

どんな人間でも、一人一人が独立した人格であり、何ぴとにも冒されない尊厳性を有する。宗教者は常に人権感覚を研ぎ澄まし、身の回りの人々、地域の人々に心を配り、何かあれば頼りにされるような存在でありたいものだ。宗教的支援(支縁)が、人と人との開放的かつ解放的な「結縁」となることを願ってやまない。