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広島を語らなかったAさんの「倶会一処」

2012年11月13日付 中外日報(社説)

海軍の学校に在学していたAさんが、昭和20(1945)年8月の終戦で復員した時、広島の自宅は原爆のため、跡形もなかった。広島では名を知られた料亭だったが、戦争のため営業を停止、当主の父親は死去して、母親と姉が留守を守っていた。

爆風のために古い木造の料亭は倒壊し、母親は下敷きになって動けない。姉が助けようとしたが、一人では無理だ。火の手が迫った時、母親は言った。「私はもういい。あなた一人だけでも助かってちょうだい」。心を残して、姉は逃れた。

復員したAさんは、出迎えた姉に言った。「姉さん、あなたはなぜ、お母さんと一緒に死んであげなかったのだ」。事情を知らない人は、なんという残酷な言葉だと思うかもしれない。だがその一言で、姉は救われた。

なぜならAさんは、本心から姉を責めていない。その言葉の裏には「よくぞ姉さんを残してくださった」という母親への感謝がこもっていたからだ。

姉は姉で、死に後れた後ろめたさを背負っていた。「なぜお母さんと一緒に……」と責めるであろう弟の復員を待ちわびていた。責められることで、心の重荷は幾分か軽くなる。あの夏の広島に居合わせた者には分かる心境である。こうしてAさんと姉の、長くつらい戦後が始まった。

Aさんは、全国紙の記者になった。しかし在職中、一言も広島を語ろうとしなかった。定年退職の前には社会部長に昇進、手腕を振るったが、大きなニュースがない時には、伏し目がちで行動することが多かった。

Aさんが亡くなったのは、平成10(1998)年の早春だったと記憶する。Aさんの祖先は九州出身と聞いていた妻のB子さんは、檀那寺を捜したが、廃寺となったのか、見当たらなかった。子どもに恵まれなかったB子さんは、行く末のことを考えた。

生前のAさんが「骨仏になるのもいいな」と語っていたのを思い出し、先ごろ、大阪の浄土宗一心寺に納骨した。

骨仏の開眼大法要の案内を受けたB子さんが一心寺を訪れると、長蛇の列だった。激動の戦中・戦後を生きた人々が、仏縁に導かれて一体となるのだと感じた。ヒロシマに耐えて生き抜いたAさんの倶会一処であった。

少子高齢化社会が進み、B子さんと思いを共にする人が増えるのではないか。仏教界だけでなく、全ての宗教団体の、適切で温かい配慮が望まれる。