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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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新しい"求道者"の受け入れへ努力を

2012年11月3日付 中外日報(社説)

「キリスト教の教会へ行きましたが、その雰囲気に溶け込むことができませんでした」というお便りを、都内在住の女性・Aさんから頂いた。

Aさんは、著書翻訳でアメリカ人のB宣教師の世話になった。B宣教師に、教会へ行ってみませんか、と勧められたので、日曜日に近くの教会を訪れた。だが誰も話し掛けてくれない。司祭の指示で起立や着席を繰り返し、Aさんの知らない聖歌の合唱があった。B宣教師の笑顔に共通するものは見いだせなかった。

多くのキリスト教会には、宣教と司牧・牧会の二つの顔がある。宣教とは、新しい信徒を増やすこと。司牧・牧会とは、既に洗礼を受けた信徒の信仰がさらに深まるよう、指導することだ。

B宣教師がAさんに教会行きを勧めたのは、宣教活動である。ところが、たまたまAさんの訪れた教会は、司牧本位の姿勢だった。そのため、初めて訪れたAさんに身の置き所がないとの印象を与えたようだ。

実はこれは、キリスト教に限らず、仏教界の一部にも共通する問題ではないだろうか。ある有力宗派の本山での大法要の期間中に、1人の僧侶が語っていた。「わが宗派には、求道者を引きつける魅力がやや乏しいような気がしてならない」と。

その僧侶によると、大法要に参列の信徒は、受け身の姿勢に終始している。声を出すのは、偈文の一部を唱和する時だけという。一人一人が本尊や祖師と"対話"できるための時間が設けられていない、とも述べた。

さらに本山では、末寺単位の団体行動をとることになる。別々の教区から来た信徒同士が、互いの情報交換をしたり、初参加の求道者と語り合う場がほとんどない。だが、立教開宗以来定着している儀礼や慣習を改めるのは、容易なことではない、と。

キリスト教にも仏教にも共通しているのは、信徒の顔ぶれの固定化と高齢化だ。以前は宗門系大学学生を中心に青年部活動が盛んだったが"就活"の影響からか、若い姿を見掛ける機会が少なくなったと指摘する人もある。

既成宗教への注文として、一部教団の視点が現状を守る司牧・牧会的な面に偏重し、外への発展を目指す宣教の面がやや弱くなっているのではないかという声を聞くことがある。東日本大震災での宗教者の活動のような、新しい波を期待するものであろう。

本稿では、一部であえて婉曲な表現をしたことをお断りする。