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現代人が忘却した生の主体的現実性

2012年8月2日付 中外日報(社説)

あるキリスト者が言った。「仏教徒は法蔵菩薩の浄土建設などというありもしないことをどうして信じていられるのだろう」。それを聞いた仏教徒が返した。「キリスト者は神などというありもしないものをどうして信じていられるのだろう」。2人に議論をさせたら面白いことになったろうに、残念ながら共に故人である。

ところで、ここで気になるのは「ありもしない」という時の「ある」という言葉の意味だ。近代人には客観的事実だけを事実として認める傾向があって、この「信念」は確かに科学と技術を進歩させたけれども、提示可能な客観的事実だけが事実だというのは近代人のいわれなき独断にすぎない。

それなのに現代の我々にはとかく「ある」とは「客観的にある」ことだと考える癖がある。上記の疑義についても問題はまず「ある」とはいかなる意味かということだ。実は問題は客観的事実性ではなく「現実性」なのである。

感覚は現実だが客観的事実ではない。しかし誰が痛みの現実性を否定しようか。音楽は身体の中にしかない。外部に客観的に存在するのは空気の振動であって音楽ではない。数や図形は思考の世界に存在権を持つものであって、1、2、3という数や正三角形が自然的・客観的に存在するのではない。生物や生体は客観的に存在するが、生命は「これが生命ですよ」とつまみ上げて提示できるような事物ではない。感覚や思考や生は客観的事実ではない現実性によって成り立っている。そもそも「私」は客観的事実ではない。

他方、客観的事実は私(たち)にとって存在するものであって、私(たち)抜きにあるものではないが、その私(たち)は主体であって客観的事実ではない。それなのに客観的事実だけが事実として通用するのは誠に変な話だ。

意識も自由も主体性も、否定できない現実だが、客観的事実ではない。これはいまさら言い立てるのも恥ずかしいくらいの常識なのに、科学優位の現代では忘却されているらしい。浄土や神が「ある」というのは、世界内のどこかに客観的に提示できるモノとしてあるということではないが、現代人は科学的認識から外れることは虚妄だと思い慣らされてしまった。この近代の一大盲点に宗教者すら十分気付いていないのではないか。ここで詳論できる問題ではないが、浄土や神はまさしく主体性、むしろ人間的生命の本質を成り立たせる現実であって、客観的存在ではない。だから現代人にこうも無視されるのであろう。