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「私は私」の我執は克服するべき迷い

2012年7月24日付 中外日報(社説)

我執というものがある。場合によっては我欲よりもたちが悪い。我欲なら損だと分かれば引っ込むけれども、我執には損得に関わらないところがある。例えば面子がしばしば我執の所産である。オレが考えた、オレが言い出した、オレがやった……このように、オレに関わること全てについて、損だと分かっていても自分の面子を立て、他人に押し付ける。

要するに理由の如何にかかわらず、オレが否定されることに我慢がならない。たいていの人はこのような我執に迷惑を感じた覚えがあるだろう。というより、我執は「個の主体性」を――間違った仕方で――重要視する現代において特に目立つのかもしれない。

我執はどこから来るか。特徴の一つは、このような人が「私は私『のみによって』私だ」という態度を貫いて、他者の干渉も援助も、むろん否定も受け付けないところにある。ところが人間は自分一人では生きられないもので、「私は私『のみによって』私だ」という認識は虚妄だから、突っ張れば必ず強情になる。言い出したら梃子でも動かない強情だ。

そもそも「私は私である」という理解がおかしいのである。むろん私が私であるのは事実だが、私の中には、私が自分だけで作り出したものは何もない。まずは身体がそうだが、私が日常使っている言語、それなしでは人間として社会生活を営むことはできない言葉も、私が自分で作ったものではない。

私の中にあるものは原子1個、単語一つといえども私の外に由来しないものはなく、私はそれらを自分の営みの一部に変換し得たのであって、生とはこの変換能力のことである。そして変換されたものは全て、元来は私のものではないという性質も持ち続けている。だから変換能力の終焉は死を意味するのである。

まして私は私「のみによって」私だという理解は妄想にすぎない。実際、仏教はもちろん、世界宗教は「私は私である」「私は私のみによって私である」という妄想に人間における最大の問題、克服されねばならない迷いを見てきたのである。

ところで我執をイメージ化したらどうなるだろうか。社会生活の場をなくし、痩せ細って生気を失い、怨念の塊になっている。つまり幽霊そっくりだ。幽霊は怪談の主人公と相場が決まっていて、見たことのある人はまずいないが、幽霊への恐怖は誰の心にも潜んでいる。その恐怖はもともと我執への恐怖なのかもしれない。