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禅の行の普遍性と牧師の宗教的経験

2012年5月31日付 中外日報(社説)

北ドイツにプロテスタント牧師の知人がいる。40年余、「坐禅」を実践してきた。「坐禅」といっても結跏趺坐はできないから、ホッカーという低い椅子に腰掛けて正座するので、メディタチオン(瞑想)と呼ばれている。16歳の時、日本で禅の修行をした女性が主宰する坐禅会で手ほどきを受け(このような坐禅会はいまやフランス、ドイツでかなり盛会である)、よほど性に合ったのか、牧師になってからもほとんど毎日独坐したという。

とにかく人間性の根源に触れる「経験」をしたかった。しかし特定の目的を設定して「瞑想」するのは間違いだと教えられ、只管打坐を実習したのだが、やはり「経験」に至りたかったのだという。

先ごろ久しぶりに会った時、ついに「宗教的経験」が訪れた話をしてくれた。4年ほど前、もう自力で経験に到達するのは不可能だと諦めて努力をやめた日に、思いがけず向こうの方から「経験」が訪れた。それまでは「自我」が自分の主体だと思っていた。それがそうではなく、「自我」は身体の一機能だということがよく分かってきたという。

キリスト教の場合、道徳的完全を求めてひたすら努力を続けた自我が行き詰まり、努力を放棄して「救い主」を仰いだとき、「私は生きている。生きているのは私ではない。私の中でキリストが活きている」という経験をすることがよくある。知人の牧師の経験もこの道程と基本的に一致している。実際、彼の経験内容をよく聞いてみると、当然といえば当然だが、禅的というよりは上記のキリスト教的表現になじむようなものであった。これは行としての坐禅が特定の宗旨宗派に限られない普遍性を持つということだろう。

長年の「瞑想」は「経験」の役に立ったのかと尋ねたところ、無益だったとは思わないが、経験は瞑想をしていないときに思いがけず向こうからやって来たので、直接の因果関係があるとも思えないということであった。正直な感想であろう。

ところで、坐禅については脳科学的な研究があり、脳波(アルファ波)の測定などがなされているが、アルファ波なら坐禅でなくても出るのである。普遍性のある宗教的行としての坐禅の研究なら、坐禅によって脳が身体感覚を含む感覚一般にどこまで開けるか、また脳の局所ではなく、全体の連動の仕方がどうなっているかというような、より視野を広げた検討の方が重要ではないかと思うのだが、いかがだろうか。