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「個我」の自己主張を野放しにする危うさ

2012年5月8日付 中外日報(社説)

近代は個我が目覚めた時代といわれる。確かに自由と人権を主張した個我は、現代のわれわれが目にする通りの新しい文明を創造した。だが宗教を捨て世俗化した近代的個我は、とかく「私は私自身によって私である」と主張する。

近代人がなぜ「私は私自身によって私である」と思うようになったかは、実は立ち入って検討されなければならないのだが、事実として近代人はこう考え「私自身によって」が自立と自由をもたらすという。ところが実は私は「私自身によって」私であるわけではないから、この自己主張は常に危機にさらされる。すると「自由」を求める個我はいわば強情を張って「私自身によって」にこだわるから、我執的自我になる。

それは「私自身」の外からくる否定を一切拒否する自我である。私が感じた、私が考えた、私が計画した、私がやった……「私」は一切否定されてはならないというわけだ。これでは争いが起こるのは当然で、傷つくことを恐れる自我は引きこもり、なるべく人と関わらないようになる。

実は、「私自身によって」を抜いた「私は私である」もすでに問題なのである。「私は私である」というのは無明的自我の特徴で、「私は私である」は自明ではない。気が付いたら私は私であり、どうしてそうなのかは、誰にも分からない。私が私であり続けられる保証もない。自我はこうして不安になり、自我の安全を求める。

すると「私」は、生活の安全を保証するようにみえるカネ、地位、権力を求め、自我に満足を与える快楽を求めだす。我執と我欲が結合すると争い、征服し、支配しようとする欲望に火が付く。しかし、もうこれで大丈夫ということは決してないから、この欲望には限りがない。こうして欲望は貪り(強欲)へ変質する。そして、自由と自立を求めたはずの個我はかえって我執・我欲のとりことなり、奴隷と化してしまう。

こうしたことは実は世界宗教が二千年以上前から洞察していたことだ。救い、自由とは我執・我欲からの救い、自由のことであった。しかし宗教は(仏教もキリスト教も)制度化されて純粋性を失っていったのだろうか、あるいは世俗化された時代が「自我」の否定を嫌ったのか、個我の自己主張は地球規模の危機を生み出していて、しかもその原因は全く気付かれていない。他方、伝統に安住する世界宗教は、残念ながら、現代に対し、この悪夢からの脱出について有効に語る言葉を見つけられないでいるように思われる。