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今年の本屋大賞は「言葉の海」の物語

2012年5月3日付 中外日報(社説)

国語辞典はどれも大同小異と考えられがちだが「辞書によって編集哲学が全く違う」という。先日の朝日新聞が、漫才師のサンキュータツオさんの意見を紹介していた。この人は芸能活動の一方で、一橋大学の非常勤講師を務める国語学者でもある。

タツオさんによると、国語辞典には「用例の三省堂、規範の岩波書店」という二大潮流がある。前者は日常使われる言い回しを積極的に取り入れるが、後者は規範的な日本語の原点を大切にする保守的な姿勢だそうだ。

さて、全国の書店従業員が「いちばん!売りたい本」を投票で選ぶ「本屋大賞」の第1位に、今年は三浦しをんさんの『舟を編む』=光文社=が選ばれた。華やかなメロドラマかと思ったら、さにあらず。出版社で最も地味な職場、辞書編集部の物語である。

辞書はその出版社のステータス(地位)の象徴だから、大切にされてよいはずだが、ベストセラーのように、すぐには収益をもたらさない。三浦さんが描く「玄武書房」では、辞書編集部は古い別館の、ほこりっぽい部屋に押し込められている。

主人公は、入社3年目、世渡り下手な真面目人間だ。定年退職する先輩の後を継いで、岩波の『広辞苑』、三省堂の『大辞林』クラスの新しい辞書の編集を進める。しかし社の幹部は"金食い虫"の辞書作りに好意的でない。

新辞書からの撤退をほのめかしたり、既刊書の改訂作業を押し付けたり、部員減らしをするなど、逆風が続く。その中で真面目人間氏は古語、新語、ことわざ、専門用語、外来語を丹念に拾い集め、百科事典としても使える万能辞書作りを進めてゆく。

明けても暮れても言葉との闘いが続く辞書編集部にも、愛の物語や美しい友情が生まれる。三浦さんの筆力に、読者は引き込まれてゆくだろう。15年かけて新辞書が完成した日、監修者として援助してくれた国文学者は、すでにこの世を去っていた。

ところで書名の『舟を編む』とはどういうことか。三浦さんは作中の人物に、辞書とは言葉の海を渡るための舟だと語らせている。完成した辞書は『大渡海』だ。このネーミングで連想させられるのは、親鸞聖人作『正像末和讃』の一節である。

「小慈小悲もなき身にて/有情利益はおもふまじ/如来の願船いまさずば/苦海をいかでかわたるべき」。世にある多くの辞書類が言葉の海で「如来の願船」の役割を果たすことを期待したい。