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生命の尊厳を冒す「いのちの値踏み」

2012年4月21日付 中外日報(社説)

がん等で死が近づいている人や認知症の高齢者の医療ケアについて関心が高まっている。延命治療に力を入れQOL(生命の質)の低い状態で生き続けさせるよりも、生命力の衰えをそのままに受け止めて自然に死を受け入れていけるようにしようという考えによるものだ。

ほとんど身体が動かず反応もなく、さらにほぼ意識がなくなっても点滴や胃ろうによる栄養補給で生き延びることはできるが、それを長期にわたって続けることは本人の生きるに値するいのちを助けたことにならない。本人の意思を尊重し家族など近しい人たちの納得が得られれば、穏やかに死を迎える仕方を選んでもよいだろう。

ただ、それはある種の生のあり方を、たやすく「生きる価値がない」と判断できると考え、生を終わらせる措置を肯定するものであってはならない。そのような考え方をとれば殺人や自殺幇助肯定(積極的安楽死)や優生学の考えに近づいていく。それは、私たちが大切にしている「いのちの尊さ」の価値を冒すことになる。「尊厳死」を法で規定し、延命治療をやめた医師が訴えられないようにするという動きがある。これに対して、それは「いのちの尊さ」を冒すことだとの懸念の声が上げられている。

「価値がないいのち」「価値が低いいのち」にお金や労力をつぎ込むのをやめよう、という考えがほのめかされる機会が増えている。これは総医療費を抑制し経済的な損益計算上合理的な資源分配をしようとする考え方と歩調が合う。

現代医療にはこの方向での圧力が加わっている。もっぱら市場経済の仕組みに従うとそうならざるを得ない。だが、「いのちの値踏み」を是とする考えは「いのちの尊さ」を信じる人々の考え方とは対立する。

死生観を問うとき、安らかに死を迎えるにはどうすればよいのかという問いが重んじられる。「死の受容」のために「死の準備教育」をするべきだという主張もなされる。死を忘れがちな現代人に死生観を問うことは大いに意義あることだ。

だが、死生観を問うのは「いのちの尊さ」を問い直すことでもある。「いのちの尊さ」を問うといっても抽象的にその意義を問うのでは不十分だ。現代の医療や社会システムが「いのちの尊さ」を軽んじ、「いのちの値踏み」を推し進めてはいないか。そのような問いと共に死生観を問うていきたいものだ。