ニュース画像
「誠」の隊旗を掲げた五重塔院で営まれた法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

言葉を超えたものを言葉へと定着させる

2012年4月10日付 中外日報(社説)

入矢義高氏の『求道と悦楽―中国の禅と詩―』が装いを新たにして岩波現代文庫の1冊に加えられた。著者生前の昭和58年に刊行されたものに6編の文章が増補され、衣川賢次氏の「解説」が付されている。

中国の俗語文献を読み解く該博な知識に基づいて、俗語でつづられる禅文献に立ち向かった入矢氏。文献として残されたものに禅者の肉声を聞き分け、その内実に深く切り込んだ。かくして衣川氏の解説にいうように、「神秘的直覚や棒喝のみが強調される参禅から距離をおき、文字にそくして理解するという中国文献学の方法による近代的な禅学が生れることとなった」のである。

『求道と悦楽』に収められた文章で繰り返し取り上げられ論じられているのは、唐代の禅僧である鏡清和尚の次の言葉である。「出身は猶お易かるべきも、脱体に道うことは還って難し」。悟りを得ることはまだ易しいが、自分が得た悟りをそれさながらに言葉で表現することはかえって難しいというのである。

「出身猶可易、脱体道還難」。五言詩の平仄にかなった鏡清のこの言葉の意味するところを、入矢氏は次のように説く。「『禅は言語・文字を超えたものだ』という体験至上主義にアグラをかいたままでは、ほんものの禅ではない。その言葉を超えたものを言葉に定着させるという至難のわざをくぐりぬけずに、ただ『以心伝心』『不立文字』を唱えているだけでは話にならぬ、と鏡清和尚は戒めているわけである」

中国の古典である『易経』(繋辞伝)に、「書は言を尽くさず(文字に書かれたものは言いたいことを述べ尽くせない)」というのに続いて、「言は意を尽くさず」とある。言葉は心に思うことを言い尽くすことができないというのだ。また『荘子』(外物篇)に、「意を得て言を忘る」という言葉もある。

「言は意を尽くさず」とはいわば言語不信の表明であり、「不立文字」がしばしば禅の立場であるかのごとくに言われるのは、それこそ『易経』のこの言葉にアグラをかいたものなのではないか。「以心伝心」は『荘子』の「意を得て言を忘る」に通じる立場であろう。

禅文献と格闘し、言葉の持つ重みが血肉とすら化していた入矢氏は、鏡清の言葉をずしりと受け止めたのだ。あえて「ずしりと」という表現を用いるのは、それが入矢氏が好んで用いた言葉であったことを思うからである。