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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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「ダチョウ人間」にはなっていなかったか

2012年3月1日付 中外日報(社説)

「3・11」からほぼ1年間、何を見て、今何を見ているのか。こう自問してあらためて思うのは、この国では一度災害に遭うと、立ち直りが容易ではないという現実だ。17年前の阪神・淡路大震災でも経験したことである。

命も生活基盤も根こそぎにした東日本大震災の被災の実相は今なお言葉では言い尽くせない。被災地ではまだ3300人近い人が行方不明。今も捜索が続く。避難者は30万人を超え(昨年末)、自殺者や仮設・公営住宅での孤独死も相次ぐ。家族への虐待も増えているという。将来への悲観と長期化する避難生活のストレス。既視感のある悲しい情景だが、事態は阪神・淡路よりはるかに深刻だ。

福島県では原発事故で9万人もの人々が避難指示を受けている。某紙の調査では、事故による避難者のうち自宅に戻りたいと答える人が徐々に減り、今年に入ると3人に1人になった。放射能を除染しても戻るのは難しく、住み慣れた故郷を諦めざるを得ない。その心境を思うと胸が痛む。

被災者の苦悩や苦闘ぶりが報道されない日がない中、従来なかったことだが、現場を踏まえた宗教者の言動がマスコミで時折紹介される。人知を超え、資源浪費の生活まで問い直された「原発災害」の惨禍を前に、メディアも宗教的な「心」の領域の存在を認識し始めたのだろうか。とはいえ民間の力に限界のあることも事実。だからこそ政治の出番なのだが、人々の必死の努力に比して、その対応はもどかしい限りである。

阪神・淡路に続き今回も震災に関する政府の重要会議の議事録が作成されていなかったという。政策決定過程ばかりか責任関係の検証も危ぶまれる。戦後被った最大の惨事として歴史に長く記録される災害にしてこれである。「政治不在」と酷評されるのも当然だ。

原発事故はこの震災を一層悲劇的なものにした。次々暴露される原発の「安全神話」のでたらめさに「オーストリッチ(ダチョウ)・コンプレックス」という心理学の言葉が浮かぶ。ダチョウは危険が迫ると頭だけ砂に隠すといわれ、不都合なことは見て見ぬふりをする人間の習性になぞらえたものだ。原発も同じことだろう。震災前から続いていた事故は隠蔽するか過小評価し、巨大地震と津波が周期的に起きることが分かっていたのに「想定外」と言い抜ける。

しかし、わが身を省みると、政治の不誠実さにも原発の危険性にも薄々気付きながら、見ぬふりをしていた。さまざまな思いが込み上げる「3・11」である。