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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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「日常性バイアス」に埋没せぬということ

2012年1月19日付 中外日報(社説)

推理ドラマで、ガードの堅い会社の受付が、聞き込みに来た刑事にまともに応対せず、追い返す場面がある。ドラマ盛り上げのための伏線らしい。

先日のオウム真理教元幹部、平田信容疑者の場合はこれと裏返しで、指名手配中の容疑者だと名乗ったのに、警視庁の入り口では相手にされなかったとか。逮捕の後で発表された平田容疑者の顔写真は、指名手配用の写真とはやや印象が違っている。受付の警官が、いたずらと判断したことに同情できなくもない。

だからといって、出頭した容疑者を逮捕する機会を放棄されては、たまったものではない。ある新聞は「日常性バイアス」と呼ばれる現象で、オウム事件が日々の経過の中で風化・埋没していたのではないか、と指摘していた。

確かにそのようだが、こうは考えられないか。官民を問わず、受付という部署には、面倒な相手には玄関先からお引き取り願った方が無難だという気風がわだかまりがちだ、と。筆者の思い過ごしであれば幸いである。

ある県の知事が「開かれた知事室」を提唱したことがある。警察も、庶民と接する機会の多い役所だから、開かれた一面があってもよいのではないか。例えば交番のお巡りさん的な姿勢だ。平田容疑者が交番へ名乗り出ていたら、別の経過をたどったかもしれない。

「開かれた」といえば20年余り前、カトリック教会が「開かれた教会」づくりを目指したことがある。第2バチカン公会議の決定に従い、プロテスタントはもとより神社界、仏教界とも理解と協力を進めるのが目的だった。

西日本の有力教会でも、神父や信徒が、いかにしてプロテスタントとの協力関係を築くかを話し合うことになった。それを知ったプロテスタント系『キリスト新聞』の記者が、会の模様を取材しようとした。だが門は開かなかった。「これは内輪の会議ですから」と言って拒否された。宗教間の協力が当然とされる今となっては笑い話だが「開かれた」組織づくりがいかに難しいかを物語る例といえよう。

東日本大震災では東北3県を中心に、寺院をはじめとする宗教団体や信徒会館などが門を開き、被災者を受け入れたことが記憶に新しい。檀信徒でない人々も快く迎えた例が多い。「宗教者として当然のこと」という声が広がったと聞く。阪神・淡路大震災での体験や教訓が「日常性バイアス」に埋没することなく有効に生かされたといえるだろう。