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知の近代化の性格 自然科学と歴史学

2011年11月15日付 中外日報(社説)

「こうだと考える必然性がある」と「実際にそうだ」というのは異なる。「それは考えられない」と「それは実際にない、起こらない」も違う。事実は想定だけでは決められない、想定外のことがあり得るし、起こり得る。この原則を明確にし、徹底することが知の近代性と前近代性を分けたといっても過言ではない。

「理論(想定)だけでは不十分だ、理論の正しさは実験で確かめられなくてはならない」という原則を立てて堅持したのはまず自然科学で、自然科学が成功した理由の一つはここにある。自然科学以前は権威者の言葉、古来の言い伝え、また大多数者の通念が事実として通用していた。近代の自然科学はそれを打破したのである。

しかしそれが決して容易な道ではなかったのは、例えば地動説が唱えられ受け入れられた過程を見れば分かるし、今でも科学者の想定外のことが実際に起こることは我々が最近経験したことである(3月の大地震の直前に、東北地方東方沖でマグニチュード9の地震が起こり得ることが地震学的に分かったけれども、広報が間に合わなかった、とされているが)。

自然科学は理論(想定)と実験という両輪の相互補完が可能である。しかし歴史学ではそうはいかない。過去の事実はすでになく、再現は不可能で、直接事実に即する検証はできない。認識は広義の記録によるしかないが、記録は失われることがあり、必ずしも正確ではない。しかも内容は製作者の知識と利害関係に左右される。

ゆえに、あらゆる可能な方法で記録の信頼性を吟味する史料批判が必要なのだが、それにも限界がある。だから歴史認識は多かれ少なかれ不確か(蓋然的)で歴史記述の複数性は普通のことだ。

裁判の正しさは科学と歴史学の中間にあるといえよう。刑事裁判の場合、犯行の事実はすでに過去であっても、当事者も関係者も現存することが多い。記憶も薄れてはいないし、物証もあるだろう。とはいえ、犯人と犯罪内容の特定は必ずしも容易ではない。物証、関係者の証言、自白、さらに正当な検証作業がそろえばよいのだが、いつもそうとは限らない。想定と事実とは同じではないということは、状況証拠だけでは原則上不十分だということだ。最近検察の起訴不起訴が問題になっているが、原則の堅持は重要である。

ところで宗教の「知」は近代化されたのだろうか。宗旨、宗派によって違いはあっても、依然として権威と伝統だけに依拠しているのではないだろうか。