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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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宗教の社会貢献と被災者支援の活動

2011年9月29日付 中外日報(社説)

関西学院大学で先ごろ開催された日本宗教学会の学術大会で「東日本大震災と宗教」をテーマとするパネルが開かれた。パネル自体についての感想は差し控えるが、フロアからのある発言が記憶に残っている。

震災・津波被災者支援のボランティア活動が仏教や神道に本来、何の関係があるのか――そのような趣旨の質問だった。パネルテーマに関心を持つ傍聴者に多少の差はあれ抵抗感を与えた発言で、直ちに別のフロア参加者から反論があった。発言者も恐らく、そんな反発を引き出すことを狙ったのであろう。

「鎮護国家」など、宗教に期待される役割は時代と共に変化してきた。例えば禅宗では、天皇陛下の聖寿万歳を祈祷する(中国伝来の)「祝聖」が重要な儀式として今も続けられている。禅の第一義とどのような関係があるのか、現代的意味は問われるが、それ自体、宗門がたどってきた歴史の証言だ。

宗教の「社会貢献」の概念は今ではかなり普及した。「社会貢献」こそ、現代の宗教と社会の関わりを象徴する言葉だといえるのではないか。ただし、国家にとっての価値や政治との関係さえ意識させる「公益」性の議論に比べるとソフトだが、やはり、窮屈なお仕着せめいた違和感をどこかに残す。宗教団体が、己を取り巻く社会的環境の変化に対して、現在、調整の過程にあることの表れなのかもしれない。

社会貢献を活性化するために宗門の教学を見直すべきだ、などという意見も一部にはある。その問題意識は理解できるが、上からの人為的修正は戦時教学の発想と通じる恐れがあり、直ちには従えない。

被災者を支援する宗教者の活動の原点は、外からの評価も視野に置く「社会貢献」という言葉の圧力ではなく、内在する宗教性だろう。

「この支援活動が仏教と何の関係があるか」という問いも、やはり机上の議論であり、被災した町の瓦礫の中に立ちすくみ、あるいは、仮設住宅で苦しい日々を送る被災者を前にして、出てくる疑問ではない。

教学的な課題は、社会の中に出た宗教者の、こうした内発的な力を踏まえて検討されるべきだろう。その過程で、伝統的な教学の新たな意味が発見されるかもしれない。アクセントの置き方が変化する可能性は高い。「社会貢献」よりもっとしっくり合う概念も見つかるのではないか。