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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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"心のふるさと"を襲った9月大水害

2011年9月15日付 中外日報(社説)

奈良県の十津川温泉へ1泊旅行をしたのは、昨年の秋であった。十津川村出身のAさんが近隣の人々を誘って、ツアーを組んだ。同県五條市から和歌山県新宮市へ通じる国道168号を南下するコースである。

吉野川水系と十津川水系を分かつ天辻峠でバスを止めたAさんが説明した。「ここがいわゆる"辞職峠"です。毎年3月、旧制の師範学校を卒業した女の先生が、十津川村の小学校への赴任を命じられる。出迎えの校長と共にこの峠まで来て、山また山の地形を見ると、誰しも辞任したくなる。新任の先生をどうやって説得するかが、校長さんの腕の見せどころといわれたものでした」

峠を下り、谷瀬のつり橋を過ぎて、バスは十津川沿いの国道を南下する。Aさんの説明は、さらに続く。「十津川はもっぱら神社信仰の村ですが、車窓から鳥居がほとんど見えないでしょう。古くからの集落は、水害の多い川筋を避けて尾根筋に形成された。だから神社や小学校は山上の集落に建てられました」

尾根沿いの山道は、地元民でないと地理が分からず、迷ってしまう。南北朝時代に、劣勢だった南朝方が十津川村で北朝方に対抗できたのは、山の深さを"武器"としたからだった。

「昔ながらの十津川村を見てください」。Aさんは同行の人々を役場の前から軽乗用車に分乗させた。木立の間の曲がりくねった細い道を上ると、突然、20戸ばかりの集落が現れた。分教場のような古い校舎と、祠のような小さな社殿を囲む家々。この集落に潜んでいれば、北朝方の大軍の追及も及ばなかっただろう。十津川の両岸の山並みには、こうした集落が数珠玉のように連なって生活の営みを続けてきた。

役場の向かいの歴史民俗資料館には明治22(1889)年の十津川・熊野川水系の大水害で、十津川村が大きな被害を受けた際の記録が、当時の新聞紙面の複写を中心に展示されていた。この時は多くの村民が離村を決意、北海道に移住して新十津川町を形成した。今年9月上旬の豪雨は、その分村以来の被害をもたらした。道路網を寸断された十津川村には、北海道の新十津川町から復興へのエールが送られてきた。

和歌山、三重両県を含め、十津川村周辺の市町村は熊野信仰で結ばれた"神います地"である。いわば民族の心のふるさとともいうべきエリアだ。大水害のさまざまな影響が心配される今、早急な立ち直りを期待したい。