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空襲の中で官僚は復興計画を練った

2011年6月18日付 中外日報(社説)

ラジオの番組で、識者の一言に教えられることがある。何かをしながら聞くことが多いラジオは、出演者の名を聞き漏らすこともあるのだが……。

先日のNHK「ラジオあさいちばん」では、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹の山下一仁氏が出演し、戦争の末期に当時の内務官僚が、空襲で焼かれた都市をいかにして再建するかを研究していた、と紹介した。生き延びるのに精いっぱいだった時代に、である。終戦後に内務省は解体し、地方自治庁(現・総務省)や建設省(現・国土交通省)などに分割されたが、研究を生かす努力は受け継がれた。

最大の成果は名古屋市だ。狭い道路がひしめく"偉大なる田舎"と呼ばれた古い街並みの上に、広い道路網が縦横に貫く近代都市を再生させた。仏教界が協力、市内の寺院や墓地を1カ所に集約することで、新しい道路用地が生み出されたそうだ。

街づくりが一段落した昭和30年代、名古屋の観光バスに乗った筆者は、ガイドがテレビ塔の下あたりで「ここは道路幅が100メートルあります。100メートル道路は広島市に続いて全国で2番目です」と説明していたのを想起する。

名古屋のガイドが先輩格として称賛した広島では、昭和22年、初代公選市長に当選した浜井信三氏が、新しい街づくりを、建設局長として迎えた佐々木銑氏に一任した。佐々木氏は、内務省時代に戦災復興策を研究していた建設省の元技官である。原子砂漠と呼ばれた焼け跡に、100メートル道路(平和大通)を中心とした道路網を設定すると、舗装は後回しで、下水道管を埋めるため、ひたすら掘り返し作業を進めた。

デコボコ道路の舗装が進まないため、浜井市政は一時期、市民に批判されたが、後にはその先見性が評価された。だが今の広島で、佐々木氏の名を記憶する市民は極めて少ない。

ラジオでの山下氏は、名古屋市の例しか語らなかった。山下氏の真意は、東日本大震災から3カ月以上たっても復興策を提示できない永田町や霞ケ関へのいら立ちではないだろうか。

その前日の「ラジオあさいちばん」では、同志社大学大学院教授の浜矩子さんが、シャッター通りに残る個人商店のしたたかさに触れていた。スーパーやコンビニで商品が品薄になった時も、町のお店屋さんには在庫があって、おなじみさんの要求にきちんと対応していたというのだ。ラジオの情報を再評価したい。