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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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崩壊した日常性と宗教の説く平常心

2011年5月31日付 中外日報(社説)

「びくつく」という言葉がある。「びく」とは何のことか。「びくともしない」という表現があり、これは微動だにしないことだから、「びく」とは突然の小さな動きのことだろう。「びくびく」とか「びっくり」というような言葉とも関係があるだろう。深夜一人でおびえ切って歩いていて、小さな物音にも身をすくめたり振り返ったりする様子である。

これは「恐怖」や「不安」とも違う。恐怖とは、何か特定のものによって身が危険にさらされているという「認識」に基づく感情だが、危険「かもしれない」とき、人は不安になる。特定されない危険の可能性が人を不安にするのである。だから恐怖が「感情」と呼ばれるのに対して、不安は「気分」と呼ばれることがある。

ところで恐怖や不安は表情に表れるものだが、びくつく、びくびくする、というときは、気持や表情だけではなく、さらに体の動きまで含意されている。

類例に「焦る」とか「慌てる」とかいうものがある。これらの言葉には当人の動作や振る舞いのイメージが結び付いているものだ。

異常な事態に接しておびえると人は「びくつく」。全身体的に平静を失うのである。冷静に状況を判断し、落ち着いて対処し行動することが困難となり、状況に即さない不必要な動きをしてしまう。焦ったり慌てたりあがったりするときも同様である。

突き詰めて言えば、突然異常な状況に置かれると人は世界と人間(自分自身を含む)に対する基本的な信頼感を失うのである。むしろそもそも信頼などなかったことがあらわとなり、結果として冷静な行動が困難になる。

宗教には安心、平安、平常心、あるいは無心というような言葉がある。これは慣れ切った生活の中で恐怖も不安も忘れている単なる平気のことではなく、世界を底の底で統べ担っているはたらきに接しているところから出る安心感で、そこには世界と人間に対する「基本的な」肯定と信頼感がある。緊急あるいは異常な事態にはこの場合の方が冷静にかつ正しく対処できるだろう。

このところ異常、緊急といえる事態が続いている。おびえてしまった人もあるだろう。しかし平安や平常心をにわかに植え付けることはとてもできるものではない。

世界がいきなり相貌を変え、異常なものとなって襲ってくるときがある。だが、それに対処する心のあり方が存在することを、宗教はどれだけ本気で伝えようとし、また伝え得ているのだろうか。