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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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苦に向かう姿勢に宗教性が問われる

2011年5月26日付 中外日報(社説)

瓦礫の山で黙々と泥かき作業のボランティアをする僧侶らに、被災者は地震と津波の恐ろしさをとつとつと語った。胸の内を吐き出すように、その後の生活の困難についても。そこに仏教の話は出ず、形としての「祈り」もなかったが、一緒に作業していて、筆者は「宗教」を確かに感じた。

東日本大震災で支援活動における「宗教性」があらためて論議されている。その活動は「宗教者らしい」か、そこに「宗教的意義」はあるのか、といったことだ。

だが実際に現場に行くと、必要とされている支援はいくらでもあり、論議の前にまず行動が求められることを痛感する。

その上で、「らしい」とは、例えば「医師らしい」「料理人らしい」支援と比べて考えると、もちろん、そのような形の支援は存在するし必要だが、眼前に無数の「苦」が広がっている時には、別に「らしく」なくともいいのではないかと思う。読経、供養や「心のケア」といった宗教者としての活動もだが、土木作業などでも宗教者がなす支援に変わりはない。

ただ、医師などと違い宗教者は「職業」ではない。ではそこでの宗教的意義とは何か。それは決して、支援活動の機をとらえた布教といったことではなく、苦があれば行動を起こし、困っている人々に寄り添う、そのこと自体が宗教の「実践」ではないか。たとえ教えを語らなくても、苦に立ち向かう宗教者の姿に接した人々は、例えば「さすがお坊さんだ」と、生きた仏教を実感するであろう。

震災後、さまざまな支え合いが広がり、少し前まで問題になった「無縁社会」が消えてしまったかのようにも見える。だが、この社会の諸々の問題は根本的に何も変わっていない。例えば震災を理由にした派遣切りが増え、相変わらず自殺も後を絶たない。

社会がそのことに気付かないままだと、元々弱い立場の人たちが助けを求めにくい空気が広がり、犠牲も増えるだろう。ほんの昨年末に多くの「タイガーマスク」が手を差し伸べた児童養護施設が忘れ去られつつあるように。

この震災で、以前から野宿者や自死問題などに取り組んでいた宗教者が目覚ましい動きをしていることは既に述べた。支援活動における「宗教者性」とは、常からそのように苦に向かい、人々に寄り添う能力、姿勢そのものだろう。

供養や心のケアであれ土木作業であれ、その寄り添いが、神仏と人間との関係、「聖性」の中でとらえられ確信となっていれば、それこそが「宗教性」に違いない。