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人のいのちの重さと「正義の話」の違和感

2011年5月21日付 中外日報(社説)

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「正義の話」の講義は、昨年NHKのテレビ番組としても放映され、大きな反響を呼んだ。翻訳され書籍としても刊行されている。「白熱教室」などという表現が使われるようになった。

案の定というべきか、これをまねた企画がテレビでも書籍でも見受けられる。便乗商法は常のことだが、サンデル教授が実際に語っていることや、教室での反応をきちんと見ていくと、手放しで称賛していいことばかりではない。

このシリーズでは、人の命の問題がたびたび取り上げられている。5人の命か1人の命か。漂流するボートの中で起こった人肉を食べる(カニバリズム)という事件をどう考えるか、等々である。

具体的な問いをベンサムの哲学とか、ミルの思想などに絡めて議論を進め、よく準備されているので、聴いている学生は飽きないだろうと思われる講義である。

だが、命の重さについての議論は、論理を鍛えるにはいいかもしれないが、それぞれの人にとっての掛け替えのない命というような視点は、脇に置かれている印象を受ける。

例えば、19世紀に実際に起こった事件を題材にした、漂流船におけるボートの中でのカニバリズムの話で、サンデル教授は、犠牲者となった若い男を食べたことを「朝食」と表現した記録が残っていることを紹介する。学生たちはこれを聞いて笑う。英語の朝食(ブレックファースト)がもともと、断食を破るという意味であったことを踏まえると、これを紹介した理由には、少し奥行きがあったのかもしれない。

だが、今年日本が体験することになった大震災における場面を頭に浮かべるなら、命の問題がこのような形で議論されること自体に、釈然としない思いを抱く人もいるだろう。

襲い来る津波を前に、自分の命に代えて人の命を救おうとした人。救いたくても救えなかった、見殺しにせざるを得なかったことを悔いる人。そのような話に接するなら、自分が誰かの命を救ったり、救えなかったりする話を、5人の命か1人の命かというようなシチュエーションで、延々とやるのがいいのかという疑問も湧く。

このような局面を設定して、命の問題を論じることも、一定の意味はあるだろう。だが、もし命の問題を「白熱するほど議論」したいなら、どのようなシチュエーションを提示すべきか、そちらの方こそ、教える側は熟考しなくてはならない。