ニュース画像
参列者が念仏を称える中、伊藤門主は1292霊の法名が記された御回向帳を1枚ずつ手繰った
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

自然への畏敬欠く技術の思い上がり

2011年4月23日付 中外日報(社説)

世界中で起こるM6以上の地震災害の2割強は、日本に集中する(内閣府『防災白書』)。記録では、海溝型巨大地震は天武天皇の代の「白鳳大地震」(684年)以来周期的に発生し、大津波を伴ってきた。福島第1原発の事故で細川護煕元首相は「人災ではなく、ある意味で犯罪」と語った(4月13日朝日新聞)が同感だ。地震列島という現実の重みに不誠実な科学技術は人を滅ぼす。

一部の地震学者によると大自然は近年、段階を踏んで原発の危険性を警告していたという。阪神・淡路大震災の後、日本の原発の耐震安全性に問題がないとの報告書が性急に発表されたが、5年後の平成12年、未知の活断層が動いて直下型の鳥取県西部地震(M7・3)が発生。さらに5年後の17年宮城県沖地震(M7・2)と19年3月能登半島地震(M6・9)で東北電力女川(宮城県)、北陸電力志賀(石川県)各原発が基準を超える揺れに遭った。19年7月新潟県中越沖地震(M6・8)では東京電力柏崎刈羽原発が想定を大幅に超える地震動で大きな被害を出した。そして今回だ。原発は「安全」という独り善がりな思い上がりが試されていたようにも映る。地震学者の「神がいるかのようだ」という驚きもうなずける(岩波書店『世界』5月号)。

福島第1が6メートルの津波への備えだった軽率さは、すでに本欄でも指摘した。三陸海岸では明治三陸地震(明治29年)に次ぐ昭和三陸地震(昭和8年)でも最大30メートル近い津波があった。昭和35年のチリ津波でも6メートルを超えた。「想定外」は言い訳にもならない。

戦前の「軍国主義」に重ね合わせて「原発主義」という言葉があるそうだ。地震・津波の破壊力を軽視し、海岸線に54基もの原発を立地した社会的背景が通じ合うという。原発は他の選択肢を奪い、不都合な事実は隠ぺいし、事故は過小評価する。複合的な積年の弊がこの業界には根強いが、マスメディアも責任を免れない。

筆者は事故後の報道に違和感を持ち続けてきた。東電や政府などに対し、人間的な「怒り」が乏しいのだ。原発周辺の避難者は10万人をはるかに超えるだろう。生活基盤を根こそぎ奪われた上、事故処理が遅く、帰宅できるのは来年になりそうだという。人々の声なき怒りは想像に余る。

先日、本紙への涙骨賞奨励賞受賞者の寄稿に「被災者の忍耐に甘える政府の実態を諸外国は決して見逃していない」とあった。マスメディアまでが忍耐に甘えていると言われては恥ずかしい。