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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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復興への長い道程 被災地との連携を

2011年4月2日付 中外日報(社説)

東北地方を未曾有の大地震・津波が襲ってから早くも三週間が経過した。平成七年の阪神・淡路大震災や十六年の新潟県中越地震など記憶に深く刻まれた最近の大きな地震では余震は確かに続いたが、地震発生から三週間もたてば「復興」の二文字が多少なりとも具体的な展望のもと意識されていた。ところが、今度は違う。

福島第一原発の事故が深刻な影響を与えていることは言うまでもない。だが、見えない放射能の不安にさらされていない地域でさえ、津波が去ってもなお海水に覆われ、泥に埋もれ、あるいは瓦礫の山となった市街地、集落跡が大災害直後の惨状を示したままだ。確認される死者の数は日々増加しているが、行方不明者の数は依然として驚くほど多い。

被災地では自衛隊などの救援活動が重要な部分を占めている。医師など専門家の支援も強く望まれている。

だが現段階で、一般のボランティアが被災者にとってどこまで必要不可欠な活動をできるかどうか、状況は慎重に見極める必要がある。被災地から遠く離れた場所にいる宗教者が、今、被災者のために何をやればいいのか、何ができるのか、なかなか納得できる答えは出ない。

とはいえ、まず求められるのは義援金であろう。浄財を日本赤十字社など公的機関に寄託する動きはほとんどの宗派・教団で見られる。被災者支援の托鉢や募金活動の情報は各地、各種団体から入ってくるが、小紙でもすべては紹介できないほどだ。多くの宗教者がこうした活動を地道に、長期にわたって続けることができれば、復興が「希望」から「現実」へと一歩一歩近づくため貢献できるに違いない。

一方、ライフライン復旧が遅れ、ガソリンなど必要物資が不足する現地では、自ら被災した宗教者が被災者のためさまざまな活動を展開している。テレビの映像にはあまり登場しないが、仮埋葬(土葬)などが行なわれる現場で、震災の犠牲者のため読経する僧侶も少なくない。宗教者のそうした姿が、父母や配偶者、子供などを不慮の災害で失った人々の心を慰め、癒やしていることは確実だ。

雲水が修行する専門道場でもある松島の瑞巌寺が多くの被災者を受け入れたことはマスメディアでも取り上げられたが、宗派を問わず社寺が避難所となっている例はかなり多い。津波で地区の集落がすべて押し流され、高台に伽藍を構えていた寺だけが深刻な被害は何とか免れたという地域もある。

そうした所では、被災者にとって厳しい生活環境ではあるが、長期にわたって社寺が避難所の役割を果たさなくてはならないかもしれない。

いずれにせよ、このように社寺が避難所として機能し得ているのは、社寺とは「私」のものではなく、地域の中で公共の場であるという本質的な性格が根底に存在するからだ。

社寺の当然あるべき姿、宗教者としての当たり前の活動を通して、日常の中に埋もれがちで、ともすれば見えにくかった宗教性が今、至る所で問われ、注目されている。

宗門・教団としてはそのような厳しい条件の下で活動する宗教者を、被災地の現状を踏まえて、人的・物的支援、精神的な連携でしっかりと支えるよう努力すべきではないか。

これから、被災地復興へ向けての長く苦しい道のりの中で、社寺、宗教者が、たとえ目立たなくとも大きな役割を果たしてゆくことを期待し、そして信じたい。