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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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「無縁社会」の持つ宗教的な意義とは

2011年3月5日付 中外日報(社説)

NHKの報道番組によって「無縁社会」という言葉が広まるようになった。単身者世帯が増え、高齢者をはじめとして一人暮らしの人たちが目立つようになったことを指す言葉だ。

「無縁」は「無縁仏」という語からも知られるように、孤立の苦しみを連想させる。孤独に暮らし、いつしか死亡している高齢者、増大する失業者や路上生活者、また孤立して自殺に追い込まれる人々などが念頭に浮かび、現代日本社会の行き詰まりのあおりを受けて追い詰められていく人々を象徴する言葉としても使われている。

宗教界は無縁社会と呼ばれるような状況に苦しむ人の支援の活動に積極的に取り組み始めており、そこには「宗教の社会参加」や「宗教の社会貢献」の新たな可能性が見えている。例えば仏教はもともと「社会参加」や「社会貢献」の次元を含んでいたのであり、日本で言えば行基や空海はその良い例だ。

社会の「苦」にかかわるのが当然と感じていた行基や空海の仏道理解に現代仏教は戻ろうとしているのかもしれない。「無縁社会」は宗教の本来的な役割を思い出させてくれるきっかけとなっているとも言える。

そうであるとすれば、マスコミが作りだした「無縁社会」という言葉の意味を、宗教伝統と照らし合わせながら理解し直すような試みもなされてよいだろう。仏教では「縁」「因縁」「縁起」が教えの中心にある。それによれば、「縁」があってこそ真理に接することができるという考えもあれば、「縁」から脱することによってこそ悟りや解脱を得ることができるとも考えられた。

そのように考えると「無縁」というのも、単に孤立や排除を引き起こす現代社会の過酷さを表わす言葉とは言えないだろう。「無縁」は縁で成り立っているこの世の周辺にあって縁が切断されてしまう厳しい境涯を表わすとともに、縁から成る世界の境界の向こう側に開示される超越的な時間や空間をも示すものだ。

縁によって成り立つ関係は、条件によって縛られているから隔て合いが避けられない。だが、その分け隔てある関係がすべて取り払われる経験、あるいは思念もあり、それは宗教にとって重要なものだった。

広辞苑で調べると、「無縁」には「特定の対象を離れ、平等で差別のないこと」という意味があることが分かる。事実、日本の中世には「無縁」という語のそのような用法があった。仏教寺院の空間はこの世的な意味での無力さを表わすとともに、権力支配の外にあるので奉仕や税の義務を免れる空間でもあり、それを「無縁」と言ったのだ。

人はこの世にあって、あらゆるしがらみから解き放たれた絶対自由を垣間見ることもある。祭りの折には、普段他人様同士で知らん顔をしている人たちが一体感を持ち分け隔てがなくなる。「無縁」にはそのような意味を持たせることもできるのだ。

現代日本社会で無縁に苦しむ人々に接することで、宗教者やボランティアに人々は単に何かを施しているだけではないだろう。むしろ、苦しむ人に接することで分け隔てのないかかわりのあり方を求め、時にそれを施されているのではないだろうか。

社会はそもそもその周辺に「無縁」をはらんだものだ。「無縁社会」はそれをあらわにした。「つながり」を回復しなくてはならないし、新たにその希望が芽生えている。だが、それは人を「無縁」に目覚めさせるものでもあるだろう。宗教的な支援活動が深い意味を持つわけをこんなふうに考え直してもよいかもしれない。