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宗教の社会的貢献

2011年3月1日付 中外日報(社説)

日本酒の海外輸出が好調だという。グローバル化といえば、ともすると海外文化の私たちの日常生活への浸透に注意が向きがちだが、逆の流れも当然存在するわけだ。日本の食文化が海外に広まりつつある現実も確かにあるのだろう。だが、日本酒消費量は圧倒的に国内が多数を占めており、海外向けなど微々たるものだ。国内外で対照的な傾向だから、注目されているということだろうか。

旅行先の異国の都市で日本食レストランを見掛けたり、食料品店で日本の食材を発見するインパクトは強い。和食や日本酒の海外普及などは、そういう意味では注目されやすく、メディアも好んで取り上げるような現象といえる。

報道される社会現象はそれぞれ取り上げるに値する意味を持つわけだが、過度にスポットが当てられる事象がある一方で、メディアがあまり積極的に取り扱わない現象も存在する。

筆者はあるメディア関係者から、「社会的事象は某新聞なり、某TV局の目で取り上げた時、初めてニュースになるのですよ」と聞かされて、なるほどと思いつつ、少しばかりあきれたことがある。たとえ現実にはそうだとしても、身も蓋もない話である。

だが、新聞が報じなかったり、淡々と事実のみを簡単に記事として載せる出来事の中に、実は、社会にとって大切な問題が含まれているケースが多分にあるのではなかろうか?

そのようなものの一つの例として、宗教団体の社会的活動が挙げられる。特定教団の宣伝になりかねないから、メディアとして取り上げにくい理由も分からないではないが、一方で宗教法人の売買や「カルト」問題など不祥事は大きなスペースを割いて報道されることが多い。

むろん批判すべき問題がそこに存在することは事実で、大きく報道されるのは当然である。だが、宗教に関する報道は全体として公平さのバランスを欠くことになっていないだろうか。それが結果として、宗教に対する世間一般の風当たりの強さにつながり、また、宗教者の自信喪失にもつながっている部分がないとは言えないのである。

ところで最近、「宗教の社会貢献」の議論が活発だ。本紙でも同志社大学で三月六日に開催される「共生社会と宗教を考えるフォーラム」が紹介されている(二月十七日付)が、やはり「宗教の社会貢献」が中心テーマのようである。基調講演を行なう櫻井義秀北海道大学教授が編者である本のタイトルはずばり『社会貢献する宗教』だ。

「社会貢献」というくくり方は幾分お仕着せめいていて、少しばかり抵抗感はある。しかし、「公益」を強調し過ぎることの危うさを考えれば、まだしも望ましいかもしれない。そして、その概念で宗教者としての本来的な(「社会貢献」といった意識以前の)活動が、社会的な位置付けをされることで評価され、メディアなども通じて見えやすくなるのは、宗教批判の風潮が気になる中、決して悪いこととは言えない。むろん、「評価されるため」では本末転倒であるが。

宗教の社会的機能、文化史的に果たしてきた役割から見ても、宗教の存在そのものに公益性(あるいは社会的貢献)がある、と考えられる。社会貢献を目に見えやすい活動領域だけでとらえて、その概念に過度に引きずり回されるなら、それはそれでまた問題だ。

だが、外から投げ掛けられた「社会貢献」という問い掛けが、宗門内で必ずしも注目されてこなかったさまざまな活動に正当な評価を与える方向へと人々を促し、宗門の停滞した部分に良い刺激を与えることは期待してよいのではないだろうか。