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語り尽くされていない"ビキニ"

2011年2月26日付 中外日報(社説)

今月中旬、核廃絶問題報道に熱心な新聞社の女性記者Aさんが、首都圏在住の広島の被爆者らにインタビューした。その時にAさんは、米国のビキニ水爆実験で死の灰を浴びたマグロ漁船・第五福竜丸(九九トン)についての認識が充分でないことに気付いた。

「核兵器の被害はヒロシマ、ナガサキだけでない。第五福竜丸問題の勉強が足りなかったのは恥ずかしいこと」と語ったAさんは、翌日、東京都江東区の「東京都立第五福竜丸展示館」を見学した。

静岡県焼津市の漁船・第五福竜丸は、昭和二十九年(一九五四)三月一日、太平洋ビキニ環礁近くで操業中、米国の水爆実験のため大量の死の灰を浴びた。二十三人の乗組員の多くは放射能症に苦しみ、無線長の久保山愛吉さんは同年九月二十三日、死去した。四十歳だった。第五福竜丸が被ばくしたことは、読売新聞の特ダネとなった。

その後、第五福竜丸は東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として使用され、廃船後の昭和五十一年、有志が買い取って東京都へ寄贈、船体を保存、展示されることになった。

日本人の中には、ビキニで死の灰を浴びたのは第五福竜丸だけ、と理解した人もあった。しかし朝日新聞西部本社(福岡総局)社会部デスクだった長谷川千秋記者は昭和五十四年、北海道小樽市板谷商船のリン鉱石運搬船・弥彦丸(約七、〇〇〇トン)も近海を航行していたことを知った。乗組員は四十八人。同僚と協力、健在の乗組員の談話を集め「弥彦丸も死の灰浴びた」の記事をまとめた。翌五十五年元日紙面を飾る特ダネとなるはずだった。

ところが東京本社の科学部から「待った」がかかった。関係科学者らの意見を聞いたところ「当日の弥彦丸の航路はビキニから離れていた」「乗組員の中に白血球三千台の者がいたというが、個人差はつきもの」など否定的であり、説得ある記事とは言えない、との内容だ。この結果、特ダネは元日付の西部本社版だけの掲載となった。

全国紙の場合、東京本社版に掲載されないと世間から評価されないものだ。長谷川記者らの取材は、不完全燃焼で終わった。その経過を長谷川氏は、平成二十一年の『季論』誌春号誌上で報告している。

だが、長谷川氏らの報道に注目した人もいた。広島市立大学広島平和研究所の高橋博子講師は『封印されたヒロシマ・ナガサキ 米核実験と民間防衛計画』の中で記している。

「第五福竜丸以外の九九二隻を超える被災船に乗っていた乗組員の被ばくに至っては、『朝日新聞』が八〇年一月一日に、その一つである北海道小樽市の貨物船『弥彦丸』について報道し、さらに高知の『幡多高校生ゼミナール』が八五年に調査を開始するまで、ほとんど注目されなかった」=前記『季論』誌から=

第五福竜丸、弥彦丸のほかに、千隻近い漁船がビキニ近海にいたのだ。その多くが高知県の船だったことから、高知新聞や毎日新聞高知支局などの記者が追跡取材を重ねた。昨年十月十一日付の毎日新聞高知版は高知県室戸市のマグロ漁船・第二幸成丸(二〇〇トン)甲板員だった桑野浩さんの体験談として「黒いボタン雪のような灰がパラパラ降ってきた。白い灰とよく言いますが、白くありません」を伝えている。(大澤重人記者)

「第五福竜丸が被ばくした時、久保山さんは無線を封印した。水爆実験の秘密漏れを恐れる米軍に撃沈されるのを防ぐためです」と推定するのは、日本在住の米国詩人で中原中也賞受賞者のアーサー・ビナードさんだ(二月二十一日付毎日新聞夕刊)。

ビキニの秘話はまだ語り尽くされていない。三月一日は五十七年目の「3・1ビキニデー」。宗教者が、第三の"被爆"ビキニを見直すことを期待したい。

大阪本社編集局長などの要職を経て平成十三年、朝日新聞社を退社した長谷川氏は現在「非核の政府を求める京都の会」常任世話人として核廃絶運動を推進している。