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バラックに住み孤児育てた議員

2011年2月3日付 中外日報(社説)

粗末な板壁作りのバラック住宅に住んだ国会議員のことを紹介したい。参議院広島地方区(当時)で昭和二十二年から二期十二年間在職した、山下義信氏である。社会党(当時)に所属し、浄土真宗本願寺派の僧籍を持っていた。

山下氏は広島県呉市の呉服商の家に生まれた。昭和二十年八月六日の原爆で、親を失って行き場のない孤児が焼け跡をさまようのを見て心を痛め、禎子夫人と共に一人、二人と引き取って育てるうち、全部で八十人を超えた。

被爆二ヵ月後の十月、広島市の西の佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区)にあった広島県農事試験場跡の建物を入手し、広島戦災孤児収容所を設けた。施設は後に広島戦災児育成所と改称、財団法人を経て社会福祉法人となった。

物資の乏しい時代に、育ち盛りの八十四人を養うのは容易でなかった。だが山下氏は寄付を募らず、私財をなげうち、喜捨の申し出は受けるという運営を貫いた。夫妻自身は爆心地に近い広島市基町(現・中区)のバラック建てに住んだ。"井戸塀議員"という言葉があるが、塀も井戸もないあばら家だった。その自宅を足場に二十二年、第一回参議院議員選挙に出馬して当選、三十四年の引退まで二期十二年、社会福祉行政の大切さを訴えた。

政治活動の傍ら、山下氏は育成所の中に「童心寺」と呼ぶ堂宇を建てて、子どもたちが亡き肉親を偲ぶことのできる場とした。子どもの中に「お坊さんになれば亡きお母さんに再会できる」と信じて、出家を希望する者がいた。そのうち三人が龍谷大学に学び、僧籍を取得した。二人は浄土真宗本願寺派、一人は真宗大谷派の寺院に婿養子として迎えられた。大谷派の寺に入った一人は、名古屋宗務所長など宗門の要職を歴任した。

こうした経緯の背後で、山下氏に有形・無形の援助を続けたのが、同県安芸郡下蒲刈町(現・呉市)浄土真宗本願寺派弘願寺の永野鎮雄住職だった。永野氏は元日本商工会議所会頭などを務めた永野重雄氏ら"永野一家"の一人で、後に自民党参議院議員(当時の全国区)となり、宗門では宗会議員や本願寺派監正局長を務めた。

育成所の所在地が当時は広島市外だったためか、山下氏と広島市当局との連絡は必ずしも緊密とは言えなかった。その中で広島市厚生局長だった丹羽諦順氏はたびたび育成所を訪問、子どもを慰問するとともに、ポケットマネーで援助を重ねた。局長秘書の新宅晴子さんは丹羽氏に同行、子どもたちのピンポンの相手をした。山下氏は「おじいちゃん」、丹羽氏は「おとうさん」、新宅さんは「おねえさん」と呼ばれた。この事情は平成十三年六月五日の本欄で紹介した。

丹羽局長は、子どもたちの育成は個人任せにせず、市の責任で運営すべきだと考え、当時の浜井信三・広島市長に進言した。同二十八年一月、育成所は市営の施設となった。

山下氏が政界を引退するころ、子どもたちの多くは成人し、育成所はその役割を終えた。跡地は市営の知的障害者のための施設となり、所在地の地名にちなんで「皆賀(みなが)園」と名付けられた。建物は鉄筋コンクリート造りに改築された。童心寺の跡地には桜が植えられ、山下氏の功績を伝えている。

平成元年、九十五歳で還浄した山下氏は、生前「労働組合の票は、当てにならない。固いのはマッサージ師、理髪師、八百屋さんの組合などの"ギルド票"ですよ」と語っていた。これは山下氏が有力単産出身でなかったためだろう。党のモノサシでは測りきれない人物だから、戦災児育成という菩薩行に専念できたのかもしれない。

"政治と金"問題が論議される今、バラック住まいを貫いた山下氏の事跡を見直したい。