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死の側から照らす生

2011年1月29日付 中外日報(社説)

くしくもこの世に人として生を受けた者がやがて死に、幽明界を異にする。いのちの重みを考えれば、それはただ事ではない。

そういうただならぬ事に残された者たちが集まり、静かに生前を偲び、亡き人をみおくる。それは自然の成り行きというほかなく、残された者は、これを粛々と行なうがよい。

そうした葬送の儀式が、はた目から見て豪華か質素か、盛大かどうかは、瑣末な問題にすぎない。残された者が心を込めて、しめやかに亡き人をみおくるというそこに、ただ事でない一瞬があると思うのだ。

最近、葬送儀礼をめぐり、いわば畑違いのイオンが介入を始めるなど、何かと騒がしい。今は相談・紹介業務とはいえ、亡き人をみおくる重大な儀礼が例えばコンビニのアイテムの一つなどに成り下がるなど、あってはならぬこと。そんな介入はけしからん、という声が出ている。

その非難はもっともだ。が、生にのみ無類の価値を認め、それを否定する死を蔑(ないがし)ろにしてきた社会に生活し、かつ従来の濃密な地域社会を喪失している人たちにとって、日常的に親近感のあるコンビニなどに葬送に関する相談窓口があれば、文字通り、便利だろう。

加えて、生と死とを分けず「生死」ととらえる立場の仏教が、せっせと生きることに精を出し、ほとんど死を考えもせずにきた社会に、「それは違う」と物申したのかどうか。

生きることは素晴らしいことだけれど、生に注目するだけでは、生は充実しない。むしろ、死を視野に入れる。あるいは、死にゆく自分というものを深く思う中にこそ、生きる意味が読み取れるのだ。と、仏教の根幹にかかわる事柄を倦むことなく説いてきたのかどうか。問題はむしろ、そこにあるのではないだろうか。

筆者は、読経による功徳の回向があるのかどうか、審(つまび)らかにしない。また、生前のヨロシクナイ行為が、上等な戒名によって許されたり軽減されるのかどうかも、知らない。

が、世の中を見渡すに、多くの人たちがそういうことに極めて懐疑的だ。このままだと、今後ますます、亡き人をみおくる儀礼をできるだけ簡便に済まそうとするのではあるまいか。それが世の動向だ。

しかし、だからといって筆者は、いわゆる直葬などというものを認めるつもりは、さらさらない。どんなにささやかな儀礼であっても、残された者たちが葬送のひとときをきちんと営むべきだと考えるものだ。

その点、今後のポイントの一つはやはり、職業的というか日常的に葬送儀礼にかかわる人たちの、「いのち」や「生と死(生死)」に対する意思と感性であろう。

そして、すでに冒頭にも述べたが、幽明界を異にするという「ただならぬ事」に、あらためて自覚的であらまほしい。そういうものを研ぎ澄まし、残された者たちに寄り添おうとしなければ、葬送というただならぬ事も、やがては相当乱れるに違いない。

乱れるといえば、そのただならぬ事を、あろうことか生身の本人が催すという生前葬の話を時々耳にする。葬送は、亡き人を残った者がみおくる儀礼だから、本質的に当人は口が出せない。死者はどこまでも沈黙の人なのだ。言ってみれば、生前葬は越権行為だ。

むろん、オレやワタシが死んだら、こういうふうにしてほしい、と希望は出せる。そして、残った者が、故人の遺志を尊重することはある。しかし、自分の希望の通りに、葬儀が行なわれるかどうかは、分からない。

ならば、生きているうちに、あるいは、残った者の負担軽減に、ということかもしれないが、ここにも錯簡というか混乱、あるいは、事柄の取り違いがあるのだ。

歌人の斎藤史(ふみ)さんの歌集『ひたくれなゐ』の末に、次の二首が並んで収められているのが、はなはだ印象的だ。


おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は


死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも