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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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伝統の深い専門性は広い普遍性に通じる

2011年1月18日付 中外日報(社説)

初春の風物詩、初釜の催しが各家元や寺社でひと通り終わった。凛と張り詰めた空気の中で、隅々まで気配りされた所作と様式の奥深さに、筆者も心洗われる思いを経験した。

茶の湯は、そこに集った人々が共通の思いに心通わせ、一服を喫するために、実にさまざまな工夫が集大成されている。

床の軸や飾り、茶器に季節の題材を感じさせる仕立てが施されるが、その道具自体においても「こだわり」の世界だ。例えば茶杓ひとつでも、材料の割り竹を一本ずつ炭火であぶって油を抜き、日陰干ししてから何年も寝かし、ひび割れしないものをごくわずかだけえりすぐる。

その仕事を以前、「千家十職」の竹細工師・黒田正玄の第十三代御当主にお宅で見せていただいた。このこだわりの技術と「家」を守るため、明治期、急死した九代を継ぐべく一番弟子がやむなく妻子と別れて黒田家の養子となり、十代を襲名した。新たな妻との間の子が成人して「継ぎ」の役目を果たすと、早々に隠居したという。

棗(なつめ)など漆器にも何十もの工程があり、完成に最低一年かかる。蒔絵や螺鈿に至っては、研ぎ出しに椿の木の炭、馬酔木の炭とそれぞれ道具の決まりがあり、金を磨くのは天然の鯛の奥歯、線を描く細筆には木造の廃船にすむネズミの柔毛、とこだわりの極致だ。

このような世界は、「伝統」の形だけを固定化するのではなく、ひたすら良いものを求め、その道を極めようという意志に裏打ちされている。

やはり十職の一人、塗師の十二代中村宗哲さんが、かつてインタビューに「茶は人と人とのつながり。その手だてとなるのが道具です」と話していた。茶席での儀式のように見える茶せんの扱い、袱紗のさばきなどの所作にも、本来はそれぞれに亭主と客の「一期一会」を盛り立てるための意味があることは、よく知られている。

このところ、以前この社説でも触れた「ガラパゴス」現象がマスメディアで取りざたされている。携帯電話に代表されるIT機器が、世界標準とは無縁の発展を続ける状態を揶揄する論調も相変わらずだ。

だが一方で、そのような産業、経済分野ではない、茶の湯の「わび、さび」や古典芸能、「クールジャパン」の旗手とされるアニメーション、現代アートからユニークなソフトウエアまで、さまざまに幅広い日本の文化の「独自性」を誇り、見直して突き詰めようという方向性も顕著なのがうれしい。

日本的様式も援用した独創的な表現で知られる現代美術家の束芋さんが、今年六月イタリアで開幕するベネチア・ビエンナーレ日本館出品作家になったことをめぐり、『朝日新聞』紙上で、同館の企画者が「『井の中の蛙、大海を知らず』の後に『されど空の高さを知る』と続ける言い方があります」と論評していた。

このような潮流が、「内向きで元気がない」「自信喪失」と言われるこの国の現況に、何らかの光明を投げ掛けるものになることが期待される。

深い井戸が地底に広がる水脈につながるように、真に深い専門性は広い普遍性に通じる。長い伝統に培われた「様式」「儀式」には、本来ダイナミックな意味がある。

形骸化が言われる「葬式仏教」などの論議で、ややもすると「ガラパゴス」視されるわが宗教界も、今こそ確固たる自信を持って教えの深みを説いてほしい。

宗教には教派、宗派にかかわらず「様式」「儀式」へのこだわりがある。そこには、一人一人の人間の「いのちの重み」という「深い水脈」から、「生きる意味」という崇高な「空の高み」までを見通した、教えを説く宗教者と信仰を求める人々との関係性への信頼があったはずだ。

それを再確認するためにも、私たちは、「様式」を至上目的化する姿勢からも、「様式」であることのみを理由に「意味がない」と排除する姿勢からも、自由でありたいものだ。