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世相迎合から脱し仏教の真理へ回帰

2011年1月3日付 中外日報(社説)

日本の国会議員は、言うまでもなく私たち日本国民の代表である。しかし、このところ、その代表者たる人々の質の低下が問題になっている。それの目に余ること甚だしく、一々事例を挙げる気も失せるほどだ。

選ばれて国の運営を代議する政治家の質は、選ぶ国民の程度を反映している。確かにそうなのだけれども、他方、そのように言い切られると、選挙民の多くは、「あんな低レベルの国会議員を選んだ覚えはない」と困惑するのではあるまいか。

その国の政治状況と民度が相関関係にあるという一般論はともかく、昨年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」を引き合いに出せば、江戸幕末に国を憂えて活躍した志士たちの言動に、いわゆる一般民衆の思惑が反映しているとはとても言えない。むしろ両者の間には大きな乖離があるのだが、志士たちはそれを乗り越えて、自らの信念に基づき、また、文字通り命を賭して、あるべき国の形を描いたのだった。

そうしたものと現代の政治は違うと言ってしまえば、それまでであるが、いずれにせよ、近ごろの国会議員、また、その中から指名・任命される首相や閣僚たちの言動は、一時代前と比較しても、確実に低下ないし劣化している。

政治家のあまりに軽い発言も、容易に前言を翻すことも、そして下品なヤジにも、もはや驚かないが、「支持率が1%になっても(首相を)辞めない」となどという物言いが漏れて、報道されるようでは、さすがに開いた口がふさがらない。

政治のこうした体たらくに加えて、かつて一流を豪語したわが国の経済もまた、明るい展望がない。ならば、ここは人倫というか、宗教・文化の出番と心得て、まずは「貧すりゃ鈍する」を警戒せずばなるまい。

そのためにも、毅然とした宗教界に期待されることが多いのではないか。と言いたいところだが、日本仏教も昨今、ゆるくぬるい世相に少なからず迎合している。そんなポピュリズムによって、混沌とした世相や、いよいよ混迷の度を深めている多くの人々を本当に善導できると思っているのだろうか。はなはだ疑問であり、同時に心配だ。

仏教界をひとわたり眺めて、それを一言で言い表わせば、いわゆるピンキリである。危機意識を募らせ、純粋に宗教課題を模索する人もいる一方、この期に及んでなおノホホンとし、一般人から見てあきれるほど贅を凝らした生活に浸り続ける人も少なくない。

わが仏教界の様相も実にさまざまだが、全体的にはモヤモヤした状況というほかない。ここは一番、《釈尊に帰る》というテーマを共有し、その下で長年の惰性で付いた手垢や体臭の除去に精を出し、同時に「仏教の本来」を大きく掲げるべきではないかと考える。

手近にある仏教書でいえば、仏教の創唱者・釈尊の法話を髣髴とさせるといわれる『スッタニパータ』だ。本書をひもとけば容易に、毅然として潔い言葉を見いだすことができる。仏教者がまず、かかる毅然かつ潔い言葉の幾つかを聞薫習しなければならない。

例えば、「最高の目的を達成するために努力策励し、こころ怯むことなく、行いに怠ることなく、毅(つよ)い活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め」(中村元/訳)という語句など、一読しただけでも心が洗われる。

仏典読書による垢離(こり)といってもよい。仏教者こそ、虚心坦懐に仏陀の言葉を読み重ねて、仏教が見いだした人生の真理をあらためて確認すべきだ。仏陀釈尊は「人生は苦だ」と道破され、苦・集・滅・道の四諦を説かれた。苦は生老病死の四苦、そして、諸行無常。すべては時々刻々に変化し、それが前滅後生する中に、私たちの存在もある……。

そんなことを今更、というなかれ。常に基本の教説に回帰しつつ世相を問うてゆく。年頭に際し、この仏教の王道をあらためて考えたいのである。