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代理戦争化する地方選挙の勝敗

2010年12月18日付 中外日報(社説)

昭和二十二年四月、原爆の跡も生々しい広島市で初代公選市長に選出されたのは、四十代の浜井信三氏だった。青年市長と呼ばれた浜井氏はまず、市の地図の上に街路建設の予定線を赤色で書き入れた。広島市を近代都市としてよみがえらせるためだ。

被爆前の広島市は、藩政時代以来の狭い道路が、曲がったり鍵の手状になったり、くねくねと連なっていた。浜井氏は市の中心部に広い平和記念公園の用地を確保し、そこから東西へ百メートル幅の道路を延ばすことにした。他の道路も幅を広げ、縦横十文字に整然と区切る街並みを描いた。大胆な都市計画であった。

広島市には以前から三大伽藍と呼ばれる大寺院があったが、この都市計画に伴って、曹洞宗の国泰寺と、浄土宗西山深草派の誓願寺が中心部を離れ、西の郊外へ移転した。原位置で復興したのは浄土真宗本願寺派の広島別院(佛護寺)だけであった。

浜井氏は、道路予定地を策定すると、すぐに整地・舗装を進めることはせず、ひたすら深く掘り返した。太い下水道管を埋設するためである。近代都市を築くためには、下水道網の整備が不可欠との信念に基づくものだった。

道路でなかった場所を道路にして、しかも深く掘り返すのだから、路面は荒れる一方だ。バスもトラックも、のたうち回るようにのろのろと動いた。都心の交差点は、雨が降るたびに泥田になった。

有権者は、ややもすると"現世利益"的な成果を求めたがる。当時の広島市には、下水道の推進と道路整備とを同時進行させる財源がない。だが大多数の市民には、それが理解できなかった。

浜井氏の都市計画が、建設どころか、街をぶち壊していると誤解した向きがあったのかもしれない。三期目の選挙で、浜井氏は落選した。

浪人中の浜井氏は、親しい人に語った。「目に見えない部分の工事を先行させたから、落選したのでしょうね。でも道路がコンクリートで固められ、ビルが建てられた後からでは、本格的な下水道建設はできません。私の都市計画は、間違っていなかったと思いますよ」。土木建築学界でも、浜井氏の長期的視野に立つ都市づくりを評価する声は高まっていた。

四年後の市長選でカムバックした浜井氏は、道路舗装や架橋など、目に見える部分の建設に転じ「平和都市建設」の仕上げを果たした。通算四期十六年間在職して、昭和四十二年に辞任した。次の参議院選挙への出馬が期待されていたが、わずか十ヵ月後に急逝した。六十二歳、政治家としては若過ぎる死であった。被爆した身で、市長の激務にすべてを燃焼し尽くしたのであろう。

浜井氏の在職中に論議されたのは、平和公園にある原爆慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」である。「人類全体の立場からの反省」であるとの浜井氏らの主張に反対する声もあり、後には碑文の一部が削り取られるという事件も起こった。こうした「心の問題」も、広島市長には重くのしかかる。

浜井氏の時代の広島市長選挙は「世界に平和を発信する都市としての広島をいかに発展させるか」で争われた。それは、地方行政をいかに充実させるかの視点でもあった。

現在、各地の自治体で行なわれている知事選、市長選などにも共通する問題であろう。しかし最近の地方選挙を見ると「与党系、野党系のどちらが勝つか」に重点が置かれている傾向なしとしない。地方選挙が国政の代理戦争化しているのではないだろうか。「地方の時代」が叫ばれて久しいのに、国政の争いが地方に重たくのしかかっている印象を受ける。地方選挙には内閣支持率の行方とは別の争点があるはずだ。