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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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信仰なしに寺はない

2010年12月14日付 中外日報(社説)

高度成長時代の前から、マイホームを手に入れたら、次は永久の眠りの墓地を確保することに、人々の願いは向いていった。家族のしるべとしての墓地の確保は、祖先から継承した生死の文化に根差していると考えられよう。しかし、超高齢者の"所在不明"が象徴するように家族の関係は大きく変わり、墓を取り巻く事情も変化した。

田園の入会地は私的所有に変換され、かつて入会地のような存在であった村の墓地のイメージは、ほとんどなくなっている。墓地は祭祀財産とされ相続財産とは区別されるが、私的所有権のイメージが墓地の継承権にもつきまといがちである。そうしたことも背景にして、林野に新興住宅やマンションが林立するのと同様な感覚で、大小の墓地造成が行なわれ、毎日のように墓地の販売宣伝が各家庭に押し寄せている。

かつて「墓」は、祖先を祀る私的営みであったのが、それすらも経済行為の対象となったといって過言ではあるまい。そして葬儀もまた経済的合理性の発想が濃厚になり、いわゆるコストパフォーマンスを評価するような雰囲気が現われているのが最近の動向といえるだろう。

国家仏教であった奈良仏教は葬儀は行なわなかったし、現在も自らの手で葬儀は行なっていないという。やがて、平安仏教が国家の庇護を受けながらも庶民にも受け入れられ、鎌倉新仏教の隆盛と共に庶民の祈りと葬儀、そして死者回向が国民共有のものとなった。明治新政府の宗教政策は、室町時代、江戸時代を通じて形成された信仰の形態を破壊しようとしたが、結局、人々の心に根付いた仏教信仰を無視することはできなかった。

しかし、グローバル化した今日、団塊世代やそれを受け継ぐ世代の都市生活者の意識は大きく変質した。ある雑誌は、今ある七万六千もの寺院はもう要らない、近い将来残るのは六千ヵ寺程度だろう――という見立てを載せた。こうした暴論に同意する市民は少なくない。仏教界の中ですら、そんな見通しにも根拠はある、と危機感を持ってうなずく人は多い。

だが、全国各地にある寺院は、それぞれの由緒があって建立され、信仰によって長年維持されてきた。本来、献身的な信仰無くして仏教寺院は成立せず、護持され続けることはなかったのである。不活動寺院の存在や宗教法人売買がしきりに問題にされる現在、そうしたことを可能にする条件に目を向ける必要もあるだろうが、圧倒的多数の寺院がやはり同じように今も信仰によって支えられていることを決して忘れるべきではない。

僧侶がひとまとめに批判されることもまれではないが、毎月の半分は東南アジアのへき地に小学校を設置する奉仕活動に献身している僧侶など、宗教者として素晴らしい活動に取り組んでいる例は枚挙にいとまがない。廃寺同然の古寺を数年で建て直した青年僧もいる。彼は一生涯を懸けて再建に尽力しようと念願して始めたのだが、その姿に共感した人たちの力によって、実に数年で再建が成ったのだという。

寺が十分の一以下に減るという推測に説得力を与えるような現実が一方にあることはむろん深刻に反省すべきだ。しかし、合理性や効率性の基準にとらわれたり、商業雑誌の見出し一つに意気阻喪する必要はあるまい。

若き仏教修行者は世評になど惑わされず、粛々として仏道修行の道を歩み、法城護持に自信を持って精進していただきたい。世の中は批判と共に共鳴によって動いている。正しい道を歩めば社会の共感が得られる、というのは決して甘い考えではないはずだ。