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"スピリチュアル"「ブーム」の彼方に

2010年12月2日付 中外日報(社説)

関西地方で開かれた「スピリチュアル」の催しを訪ねた。見本市形式でオーラやカード占い、各種ヒーリングなど数十のいろんなブースが広い会場に並ぶ。

中高年や家族連れも交じってにぎわいを見せる入場者は、ファストフード店のように出展者の前に順番を待ち、手かざしを受けたり、瞑想したりする。「人生」を論じても、明確な指針を威圧的に説くことはなく、まさしく「なんとなくスピリチュアル」な雰囲気だ。

「癒やし」をキャッチフレーズにしたこの催しは、同種の別団体も含め毎年全国数十ヵ所で開かれている。

スピリチュアルあるいは「スピリチュアリティ(霊性)」が「ブーム」といわれて久しい。「パワースポット」やカウンセラーが人気を呼んだり、商業的流行だけではなく、心的なセラピーや「生き方」の問題として、この概念は幅広く受け入れられている。

「人間性回復」「自然回帰」などの表現に共通するのは、人智を超える大きな力、「サムシング・グレート」を想定すること。それはある種の「信仰」であり、「宗教的なるもの」のようだ。

伝統宗教内でも「霊性」はとらえられるが、それとは違うカテゴリーとして認識され、日本人の精神領域のかなりの部分を席巻した感のあるこの動きを、宗教者はどう見るべきか。

七年前に同種の催しを取材した際、関係者は「宗教ではないので安全です」と「反宗教」で口をそろえた。オウム以降のカルト事件の余韻が残っていたからだ。

今回も「安全・安心」が強調され、会場ではトラブル対応の案内まであったが、一方では例えば、カウンセラーが「神仏のメッセージを聞く」「既成の各宗教を超越したもの」と説くなど、宗教性自体は否定しない姿勢も目立った。

「宗教ブーム」の方にやや軸足を移したとも見えるが、伝統宗教あるいは新宗教との根本的な違いは、神仏という「絶対者」への「帰依」、指導者や組織の導きによる「救い」よりも、自己の啓発や「気付き」を追求することだ。「ほかの誰でもない自分を幸せに生きるために生まれてきた」とのレクチャーに聴衆は深くうなずいていた。

だが安直な「癒やし」だけではない。それなりに練られた啓発プログラムもあり、熱心に学習する参加者もいた。イベントを離れれば、地域で農業を営みながら環境保護を呼び掛けるようなグループなどもある。

表層的なものだけでもない。末期医療でのスピリチュアルケアや、「千の風になって」に象徴された新たな死生観にも通底する概念、つまり、弊害が露呈した科学信仰や近代合理主義や市場経済原理主義に彩られた文明、社会、組織の桎梏から何とか解放されたいという精神性が顕著だ。

これは明らかに、息苦しく歪んだ現代社会に対する批判の視座になり得はする。それが具体的な動きになれば変革の力ともなろう。

しかしだ。あくまで「個」の解放、向上を志向するかのようなこの潮流には、決定的な限界があるように見える。

例えばブームに敏感な現代の若い世代は、他人との関わりを嫌い、人に頼ったり相談せずに物事を自分で解決しようとする傾向が強いという。スピリチュアル流の自己啓発、「自分探し」はこれと共鳴しやすいだろうが、場合によってそれは、「孤立化」にも向かう。

一見、「幸せ」に向けた上向きのベクトルと背中合わせに、さまざまな絆が断ち切られる「絶縁社会」の淵への下降ベクトルが内包されているのではないか。

何が足りないのか。言葉の上では「全宇宙を視野に」と言いながら、抑圧や侵略戦争、貧困に苦しむ人々があふれる現実の世界はあまり見えていない。つまり、この社会の「苦」に向かい、それと関わる姿勢だ。そして、人と人とのつながり。それも、長い歴史の中で実際の人々の生き方と密接して思索され実践された、強固な持続性のある「関係性」、つまり「縁」だ。

それらこそは、本来は「宗教」が示し、実現すべきものだったはずだ。だが、多くの人々が必要としながら、既成宗教からは得られなかった、また得られないと感じたもの、それを求めてスピリチュアルが志向されるという背景を考えると、宗教者がこの潮流を「軽薄なブーム」と退けるだけでは、溝は深まるばかりだろう。