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宗教・文化的交流と排他的主張の相対化

2010年11月25日付 中外日報(社説)

尖閣諸島の領有をめぐって日中関係が荒れている。両国関係は日清戦争以来よろしくないのだが、むろん古代はそうではなかった。往来ははるか昔からあったのだろうが、日本が中国の高度な文化を全面的に受容し始めた飛鳥時代以降、日本人は漢字・漢語・漢文を学び、書くことを学んだ。

もっとも中国語が日本語を駆逐したわけではない。当時公文書は漢文で書かれ、この意味では日本語は「駆逐」されたのだが、日本人は表意文字である漢字から表音文字である仮名を創造し、こうして漢字交じりの日本語を書くことが可能となり、平安時代に優れた日本文学が生まれたことはよく知られた通りである。この伝統は現在まで続いており、日本人が漢文化を単に受容しただけではなく、それを変容して日本文化の一部に転換し組み込んだことが示されている。

ついでながらこのような関係はラテン語と現代西欧語の間にも見られる。西欧諸国はローマから書くことを学んだ。少なからぬラテン系の語彙が現代西欧語の一部となっている。英語でも、例えば"tion"や"ty"で終わる抽象名詞は多くラテン語系である。

ラテン語系の語は日本にも入ってきている。ビデオ(見る)、クレジット(信用する)、ファクシミリ(同等なものを作る)などはラテン語系で、このような語は想像以上に多い。カタカナ語に溢れた現代日本語と西欧語の関係については言うまでもあるまい。

こうした事態が成り立つのは、むろん文化は共有できるからである。国際関係では領土、国内では財産は一般に占有されるもので、古来領土は武力と外交で、財産は法律で保護されてきた。これらにおいては「私のものは私のものであって、他人のものではない」という論理学と同じ性質の自己同一性と排他性(AはAであってA以外のものではない)が支配している。

だが、もともとこの世界では事物は縁起の法則が示すように万物が互いに依り合いかかわり合って、浸透し合って成り立っているのだから、占有や排他性には不自然なところがある。だから占有は力で保証されるほかないのである。

古来宗教者は、「私」も「私のもの」も排他的実体ではないことを明らかに認識して所有権を相対化していた例が多い。この世界で宗教的認識が通用せずに、とかく排他的占有が認められているのは、それを否定すれば現実にはたちまち混乱と衝突が起こるからで、誠にやむを得ないことではあろう。

しかしこの世界でも文化はやはり共有されるのである。例えば著作権というようなことがあって、これは尊重され保護されなければならないが、その効力は限定的である。そもそも文化が共有され得るのは、例えば知識や技能を誰か他人に伝えたとしても、伝えた当人の知識や技能が減るわけではないからで、ここに財産との違いがある。

文化は広がり受け継がれるものだ。個々の芸術作品等については勝手な使用は許されないが、文化は性質上独占できないのである。

それに対して領土や財産は、他人の手に渡ればもとの所有者からは失われるから、所有をめぐる争いは深刻になる。一般論として言えばハードは占有されやすいがソフトは占有され難いといえる。

文化は、時としては「帝国主義的」征服と支配もするけれども、受容者がそれを自分たちの文化に転換して組み込むことができる限り、受容者の主体性を侵害することなく伝播が可能である。ここでは平和的交流があり得るわけだ。

だから国際関係では、政治的同盟や経済的互恵関係の樹立だけではなく、文化的交流が望ましい。ただしこの場合は受容にかかわる率直な認識が必要で、そうでなければ文化的相互依存関係が見失われる。われわれは漢字を用いながら、どこまで中国文化からの影響を自覚しているだろうか。

実は普遍的な宗教的真実こそ誰のものでもなく(占有不可能)、誰にもかかわる(受容可能)ものだ。実際には排他的宗教があり、「異教」の排除があっても、それは普遍性を本質とする宗教にはもともと不自然なことといわねばなるまい。

宗教間対話はすでになされてはいるが、文化的交流の方が宗教的相互理解より容易である。しかし異なった宗教がお互いの中に通じ合うものを発見して理解し合うとき、政治的経済的な排他的占有の主張も相対化されて、平和がより身近になるのではなかろうか。