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戻れる「大地」を喪失した現代人

2010年11月18日付 中外日報(社説)

最近外国から輸入された動植物が野山に放たれて繁殖し、在来の生態系を乱しているというので警告が発せられ、公的規制も始まっている。例としてよく挙げられるのはアライグマ、ブラックバス、カミツキガメ、アメリカザリガニなどだが、多摩川にはアマゾン原産のピラニアや巨大な肉食魚アリゲーターガーがいるという物騒な話もある。コジュケイや西洋タンポポやセイタカアワダチ草などはすでに土着して風景の一部になってしまった。

警告はよく分かるし、実際に共感も呼んでいるのだが、多少の違和感もなくはない。文化の場合はどうなのだろうか。輸入文化は在来文化の「生態系」を乱すどころかすっかり変えてしまったではないか。しかし文化の輸入を規制せよという話は聞いたことがない。いや、あったのだが、それは戦時中のことで、排他的民族主義の表われであった。また当時の排外主義者でも日本を江戸時代に戻せという人はいなかった。

言うまでもないことながら、外国文化が大々的に流入して日本を変えたのは古代と近代で、近代は明治期と戦後に二分される。これは日本の欧米化をもたらしたが、明治期はどちらかといえば西欧化、戦後はアメリカ化だったといえる。

とにかく戦後は政治(民主化)、経済(自由経済、工業化・情報化)、法律(新憲法、法体系の改革)、社会(階級社会から階層社会へ、都市化)、教育(学制改革、高等教育の一般化)、医療体系や年金、保険制度の整備などに及ぶ文化の「解体と再構築」がなされ、日本は一変した。

変化ないし変革は衣食住から日常語、交通・通信のシステム、学問・芸術、倫理、娯楽など、生活の全般に及び、これらにはむろん日本人が主体的に関与したとはいえ、もともとは欧米の圧力ないし影響力なしには考えられない。

やはり開国が間違いだった、日本は古来の文化を断固として守るべきだった、今後も日本文化の「生態系」を乱すような外国文化の流入は禁止すべきだ、という人はまずいない。むろん日本の宗教や芸術などの文化的伝統を守るべきだという主張には充分な説得力があるのだが、全面的排他主義は聞いたことがない。なぜだろうか。

特に欧米化は日本の近代化と結合していたからである。近代を創造したのは欧米だから、近代化を遂行しようとすれば欧米化は不可避だった。もはやそういう時代ではない、日本はとにもかくにも近代化は遂行した、といえるなら、現代における外国文化の流入は――この場合は欧米だけからではない――善かれあしかれ国際交流の結果であって、やはり一律に排すべきではない。

むしろ、かつて日本人が漢語と漢字を学び、そこから仮名文字を作り出して漢字交じりの文体を創造し、紛れもない日本文学の伝統を築いたような創造的受容がなされればそれでよいのだ。実際、それはなされてもいる。ではなぜいまさら動植物についてだけ「排外主義」が取られるのだろうか。そもそも稲や麦は外来植物だし、牛や鶏も昔から飼われてはいるが古来のままではない。豚は大方は近代の輸入種で、犬や猫も同様である。梅の木を駆除せよという人はいないだろう。これらは有用だから別だといっても、外来生物全般が有害だとは限るまい。

おそらくわれわれには農村と里山が、小川のある田園風景が、「ふるさと」のない人にも、原風景として無意識の中にまで刻み込まれているのである。そこには優しい人が暮らし、懐かしい草木が茂り生き物がいた。そのような原風景と重なる日本の自然が今、見慣れない外来生物に荒らされるのが耐えられない、という感覚があるのであろう。

だからそれは開発によって山が崩され潟が埋められ海浜が失せ田畑や山林が消滅するのを悲しむ感覚とも通じている。単なる排外主義ではなく、原風景への郷愁と結び付いている。突き詰めれば現代人には、個々の人の故郷ではなく、そもそも人間を包み人間が根付いていた「大地」から切り離されてしまったという感じがあるのだろう。

自由と豊かさを手に入れた現代人は「大地」を喪失して浮き草になってしまった。「大地」とは人間存在そのもののふるさと、宗教の形をとらない「根」のことだ。田園の原風景はそのシンボルである。現代人には特定のどこへというのではない郷愁がある。そして現代人はどこに帰ったらよいのか分からないでいる。