ニュース画像
多くの人が見守る中、彰義隊墓所で盛大に営まれた150回忌法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

「海の警察」視に不満示した海保

2010年11月16日付 中外日報(社説)

「海の警官がなぜ」という大きな活字。ある全国紙の社会面のトップ見出しである。「尖閣沖の衝突」を撮影したビデオ映像が「ユーチューブ」に流出していた。「私がやった」と名乗り出たのが、第五管区海上保安本部(神戸)所属の海上保安官だった。この新聞社は海上保安官を「海の警官」と形容した。

規律の厳正さで警察と並び称される海上保安庁の内部から、このような流出事件が起こったことへの意外さを、端的に表現した見出しであった。だが筆者にはこれに似た見出しで、複雑な思い出がある。

昭和二十八年、全国紙の広島支局で筆者が「海」を担当した時、取材の中心は何といっても第六管区海上保安本部(六管)であった。しかし旧海軍の解体後、海の治安と安全航行を守るため新設された海上保安庁とその出先機関について、市民の理解は充分でなかった。そこで六管の業務を紹介するため連載記事を企画した。主見出しは「海の警察・六管」である。

ところが六管勤務の海上保安官たちは「海の警察」という表現を歓迎しなかった。「犯罪を防ぎ安全を図る。確かに警察に似てはいますがねえ」と言いながらも表情は硬い。

今考えると昭和二十八年は、微妙な年であった。翌二十九年には海上自衛隊が生まれ、全国の警察組織が再編成される。その直前の年だったから。

昭和二十五年の朝鮮戦争の勃発以後、米国は日本に再軍備を促していた。"海の守り"を、米国のコーストガード(沿岸警備隊)に倣って新設された海上保安庁が引き受けていたところへ、海上警備隊が新設され、さらに護衛艦増強の兆しが見える。当時の海上保安庁には東京高等商船学校(現・東京海洋大学)の出身者が多かったが、海上自衛隊が実現すると、旧海軍兵学校の出身者が再び海を仕切るのではないか。海の主導権をめぐって、そんな感情論もあった。

一方、当時の警察は組織が分断され、弱体視されていた。全国的な組織は国家地方警察だが、その傘下にあるのは人口五千人未満の町村を管轄するローカル署だけ。その他の地域には市ごとに置かれた自治体警察があったが、横の連絡が充分でなかった。筆者は海上保安庁を、組織的に一番"弱い"時代の警察に例えたことになる。配慮不足を反省するほかはない。

六管の特色の一つは、全国でただ一つ、瀬戸内海という内水面を担当していることである。複雑な地形や海流を熟知するためには特別な体験や技能を必要とするが、お隣の五管(神戸)や七管(北九州)の舞台の広さに比べると、やや地味な感じもある。それに六管配備の巡視船の中には、図体は大きいが速度の遅い木造船もあった。「この船では不審な船を見つけても追い付けない」との嘆き節も聞いた。

それから五十余年。海上保安庁も警察も、装備や組織の近代化が進んだ。今、一部の新聞が「海の警官」と見出しにうたっても、海上保安官にも警察官にも違和感はないのだろう。

海上保安庁の職員の主流は今、海上保安大学校(広島県呉市)や海上保安学校(京都府舞鶴市など)の出身者で占められ、海上自衛隊とは別の新しい伝統が築かれている。分担はそれぞれ決まっており、今さら張り合う関係ではない。筆者が「海の警察」の連載記事を書いてから現在までの歳月は、仏教界で言えば一つの遠忌から次の遠忌までの期間よりも長い。世の中も変わるわけだ。ビデオ流出騒ぎの中で、ではこの半世紀余の間に、宗教界の姿勢はどれだけ変わったか、と考えさせられた。

大都市開教対策を練り直したり、祭儀にイベントを組み合わせるなどの努力は見られるが、危機感不足の指摘もある。「海の警察」の綱紀の確立以上に困難な問題かもしれない。